2009/10/4
公害原論
経済の高度成長に伴いその歪みが各所に現れた。その未曾有の弊害が公害であったろう。
その公害問題を背景に、宇井純の『公害原論』(亜紀書房 )が出版されたのが1971年であっ
た。 公害と言えば、足尾銅山の鉱毒問題で田中正造が活躍した事を思い出す。原因物質
が、有機水銀であれ、銅であれ、窒素酸化物(NOx)等であれ、一度水中、空中という開かれ
た環境に排出されてしまうと、それをかき集める事が現実的には不可能になってしまう。いわ
ばエントロピー増大の法則に従い発生源から周辺へ有害物質が拡散を始める。被害が現れ
るのは、それらの有害物質が発症レベルまで蓄積されてからである。従って、問題が叫ばれ
るときには、相当な有害物質が排出されてからという事になる。このような状況で、公害発生
を完全に防止するのは困難であり、対策も完全な対策は無い。現在も微量な有害物質が蓄
積され続けていると思われる。それがいつ危険レベルまで達するかは定かでは無いが、人
間が作って排出された有害物質の総和から自然が分解した分を差し引いた量が環境中に蓄
積する。公害を発生させた経済活動にも有益な部分もある。しかし、そこから利益を得た人と
損害を受けた人の収支は大きくバランスを欠いているであろう。環境問題でゼロエミッション
という考え方がある。原材料は金を出しても、商売になれば買ってくる。それを最後に環境に
排出するのはタダであるというのが経済原則であった。ゼロエミッションどころかフルエミッシ
ョンであった。売れる物を売れるだけ作って売ってしまった方が勝ちだという原則である。環
境が、宇宙船のように有限で、際限の無い水や空気も宇宙船の飲料タンク、呼吸用の空気
タンクと同じになってしまった現在、使用する優先順をつける必要があるのは自明である。