選歌集 福寿草
我が家の畑に細々と残る福寿草は両親が趣味と副収入を兼ねて植えたらしい。たまたま、
同人誌の中に埋もれていた母の短歌を見つけて福寿草の由来が分かった。そのような自分
の記憶に重なる短歌もいずれ消えてゆくだろう。もう一度ゆっくり読んでみようと思った。
1■年の瀬の 値の下がりたる 葱なれど 年の瀬惜しみ 今日も荷造りす 2
米、麦が生産過剰になると、現実的な政策として減反が問題になった。田圃に米を作るのを
やめて葱や玉葱、時にはスイカ等を作った時があった。その頃の歌であろう。
2■召集令 受けて来にしは いづこかと 島に二人して 夢のごと立てり 6
この歌は父が小笠原に出征してから45年後の作のようだ。ようやく夫婦で小笠原に旅ができ
る時代、年令になったのであろう。ともかく、戦争を生き残りこの時を迎えただけでも奇跡で
あったのではないかと思う。
3■父島に 吉川英治の 額ありて ここは心の ふるさととあり 8
母が吉川英治や文学の話をするのはよく聞いた記憶がある。従って、額の事も記憶に残って
この歌ができたのかもしれない。吉川英治にとって父島の何が心のふるさとなのかは分から
ない。この時父が何を思い起こしていたかはもはや想像する以外にない。
4■湧水の 尼が池にて 鯉飼へり 飛行機の行く 影をうつして 9
湧水あまが池(大間々扇状地の伏流水:伊勢崎市指定天然記念物)を詠った歌で懐かしく思
う。このあまが池からは、古代の遺物も発掘されており、その重要性を行政へアピールして保存運動を進めた方の話を聞いたことがある。鯉を飼っていたのは、こういう運動の以前のことなのだろうか。小さな池だが何も知らない庶民の記憶にも残っていたのである。
「ハトよ 鳴いておくれ;愛しき古里:古代の楽園(湧水あまが池)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/11/post-3077.html)。」
5■箪笥明け 子等の産着を 見ておりぬ 母縫ひくれし 形見となれば 11
戦争を挟んで母が育ち子供を育てた時代は贅沢とは無縁の時代であった。自分の母が外孫
のために縫ってくれた産着は母の形見として箪笥の中に大切にしまってあったようだ。
6■柿食めば 血圧下がると 人の言ふ 豊作なれば 折々に食ふ 12
柿は庭先果樹として大抵の農家にはある。最近はそれを食べる人も減った。祖母が干し柿
を作ったのも記憶にある。渋柿の木に甘柿を接いでしまったのか母の代には甘柿の思い出
しかない。時には柿の葉を沢庵漬けにも使ったが、沢庵を作る事も無くなってしまった。
7■自転車に 乗りてころびし 膝の打身 老いたる故か 癒えくる遅き 16
母は自転車に乗る時代では最先端にいたが、ついに自動車の運転はしなかった。父は母よ
り高齢であったが、バイクと自動車の免許は取った。こういう傾向が一般的であったと思う。
ともかくこういう身体的な変化と共に老いを自覚するようになる。
8■大寒と 言へども春の 如き日に 庭に椅子出し 夫の頭刈る 17
振り返ると父と同世代以降の男性は長髪も多いが、父は長髪になった事は一度もなかった
ようだ。農家でしゃれるゆとりも必要もなかったのと、軍隊生活の影響もあったかもしれない。
9■口笛を 吹きて犬呼ぶ あどけなき 幼なの乗りし 騎馬俑二体 20
中国の兵馬俑見物時の作品かもしれない。自分はこの歌に詠われたものの現物も写真もみ
たことがないが、なんとなくイメージが浮かんでくる。騎馬俑の作者にちょっとした遊び心があ
ったのではないかと思ってしまう。
10■老いの髪 染むるは身体に 害ありと 息子は我を 案じてくるる 27
白髪染めの事だろう。昔は高齢者の白髪は当たり前であったが、時代が変わった。
11■古希を迎えし 夫と共に来て 尾瀬ヶ原を 労はり合ひつつ 木道歩む 29
この時の写真が今も残っている。元気な頃の写真は意識して残すべきなのだろう。
12■さわやかな 山の上碑に 古き世の 話聞きをり 鶯の鳴く 30
上野三碑の多胡の碑、金井沢碑、山の上碑の一つの山の上碑を詠っている。どうも、古代
史のロマンに耳を傾けるより、周辺の風景に目が移っているようでもある。しかし、山の上碑
を見学したのにも何かの縁があったようにも思われる。
13■夫の趣味は 密閉挿しにて 山査子と椿 それぞれ 百パーセント 35
百パーセントとは挿木の活着率であろう。自分は父から挿木や接木を教えられた事は一度も
ない。ある時、父に接木をしてもらった人の話を聞いた。父の挿木を教えてくれたのがこの歌
であった。どういう縁か、最近数年は挿木や接木に興味を持って色々実験もやっている。ま
だ、百パーセントの活着率を実現できる技術レベルではない。(20010/07/22)
14■小川には 魚泳ぎゐて 蜆をりき 吾が子育てし 遠き日のこと 42
この歌の内容は自分の記憶に重なる。当時の小川の貝類としては、シジミ、カラス貝、タニ
シ、カワニナ等がいた。それぞれ、好きな場所が違っていた。母が魚や貝の名前をどの程度
知っていたのかは分からない。多分、子供達が魚や貝を捕って遊んでいた頃をなつかしく思
ったことだろう。
15■重要書類 持ちたる父に 背負われて 篁に入りぬ その日われ三歳 44
関東大震災の時の様子を追体験して歌にしたと先生の講評があった。自分が三歳の時に
父親が重要書類を持ち出したという認識は難しいだろう。しかし、育てられる中で父から聞か
された関東大震災の時の様子を原体験として記憶にとどめていたのであろう。
16■中国の 旅に拾いし 桐の実も 育ち来て四年 ひらく大き葉 46
父が実生から育てたアオギリである。生命力が強く成長も早い桐であった。直径1~2㎝の枝
を挿し木しても活着する。これを数本育てたがすぐに持て余してチェーンソーで切った。初代
の株は相当太くなりこれも1m余に切りつめたが枯れてしまった。現在二代目が生き残ってい
る。父が植木の支柱に使った枝が挿木となり発根してしまった。植木を残すか、この桐を残
すかまだ迷いがあり、決まらない。
支柱の青桐は現在寸詰め中である。植木は残し、青桐は枯れても仕方ないだろう。(2015/3/25)
17■信濃なる 野辺山電波 天文台は 四方雪にて 展望のよき 47
電波天文学は魅力があるが、自分は写真しかみていない。科学に余り縁のない母が観光で
見ていたとは初めて知った事であった。ともかく、野辺山電波天文台だけは歌を作るために
頭に詰め込んだのかもしれない。
18■幼きが 夕に葉をよす 合歓の葉に 眠れねむれと 揺らすひととき 50
なにか、童謡の世界を思い出させるような歌である。庭先に合歓の木を植えたことにより、心
象の世界では貴重な存在となっている。成長が早く、材が柔らかいので、木の寿命は短いよ
うだ。最近枝が枯れて落ちるのが多くなったように感じる。
合歓の花⇒
http://af06.kazelog.jp/photos/phot1/nemunotuyu.html
19■裏山に ひそけく咲ける 臭木にも 五辨の白花 匂ひて深し 55
鳥が実を食べて種子を運ぶのかあちこちに生える。葉がこすれるといやな臭いが出てくる。
まさに雑木の代表で農家には余り好まれないと思っていた。そのような、雑木を観察して、匂
ひて深しと詠っており感心する所であった。
20■那須の野に 農民たりし 乃木将軍は 白き顎髭に 鍬を持ちしか 60
乃木希典に関する本を読んでこの歌のような生活を送っていた事を知った。ひょっとすると戦
前は広く知られた事であったのかもしれない。エリート軍人であった乃木希典が職を退き農
民として生活した事の意味が未だ理解できない。調べてみると54~55才を含む前後約3年
間休職をしているが、これが軍の発令なのか自発的なのか分からない。正岡正剛の千夜千
冊(第八百四十九夜【0849】03年09月12日)もこの辺ははっきりした事を記していない。現役
から名誉職に向かう微妙な年齢のように思える。歴史的な結論としては乃木希典が一農民と
して那須の野に骨を埋める事は無かった。
21■寒さ来て 野菜育たねば 値も上がる 豊作貧乏は 農のみが知る 62
同じような歌をいくつも作っている。当時は露地野菜が多かった。野菜が育たず値が上がっ
ても収量が少ないのだから収入が増える保証もない。逆に、収量が多ければ値は確実に下
がる。時には、作柄がよいのに出荷が少ないので高く売れたと喜ぶ時もあったようだが。
22■沢庵の 頭と尻尾を 切り置きて 我それを食びし 若き嫁の日 64
この歌も終戦前後の嫁さんに共通していたのかもしれないが、母から直接聞いた記憶はな
い。短歌作品を作るという作業の中で回想されてきたのではないかと思う。一度味わった食
物の不足感は深く脳裏に刻まれているのだろうが、食物が充足されるに従って忘れ去られる
のであろうか。食料に対する欠乏感を味わうことを余儀なくされた世代がもう一度同じ苦労を
を味わう事の無いよう願いたい。
23■骨肉を 裂きて国民を 泣かせしめし ベルリンの壁は 厚く長かりき 65
このような世界情勢に関する歌も幾つかあった。ベルリンの壁が当時どれほど世界的に注
目されていたかを物語っているように思われる。戦争による民族分断の悲劇である。しかし、
アジアにおける民族分断の悲劇は見過ごされているようでもある。なぜなのだろう。
24■年の瀬の 稲荷祭りの 赤飯を 孫が上げにゆく 行事覚えよ 66
ここに家族の行事を孫に伝えようとする気持が読みとれる。
25■稲荷祭り 氏神に上ぐる赤飯と頭付きを 運ぶに 振り返るなと 孫に教えき 67
歌の先生は氏神に接するに「振り返るな」という教えの意義を講評で述べていたと記憶してい
る。神を祭りお供えをする目的はただ一つしかなく、その役割をしっかり果たしなさいと孫に
教えたものであろうと今では思う。残念ながら自分は母からこのような教えを受けたか定かで
ない。親から子へ伝えられる事と祖父母から孫へ伝えられる事があるのかもしれない。
26■ルーマニアの チミツシアラの 森に泣く 蝋燭ともし 腰屈めし女 69
この歌は多分、テレビで流された一連のルーマニアの政治情勢の報道を見て作られた歌で
あろう。自分の記憶からも遠くなっている。「チミツシアラ」はGoogle検索にかからなかった。
以下はWIKIPEDIAの「ティミショアラ」(最終更新 2010年7月20日 (火) 20:33 )
からの引用である。
「1989年12月16日、ニコラエ・チャウシェスクの指導する共産党政権に対する蜂起が
ティミショアラで起こった。ハンガリー改革派教会の牧師テーケーシュ・ラースローを解任しよ
うとした秘密警察に対して、市民がテーケーシュを支援したのである。このティミショアラの蜂
起はルーマニア革命の始まりとなり、1週間後のチャウシェスク政権の崩壊とルーマニアの自
由化へと繋がるターニングポイントとなった。」ルーマニア革命の犠牲になった女性への共感
がうかがえる歌ではある。
27■木斛(もっこく)の 下に芽吹きし 福寿草は 夫植ゑ置きしや また雪覆ふ 70
福寿草は春先に咲き、遅雪が花を覆ってから再び解けて黄色い花が現れるとけなげな風情
を感じる。かつて、春蘭が木の根本に生えていたので移植しようと堀上げた所、父が植えた
物と分かり戻した事があった。木斛の下に自然にはえてきたように思える福寿草も父が植え
ておいたものかも知れない。他愛のない歌だが趣味が少しずつずれていたのが幸いだった。
28■いとまあらば 書きて置きたき 戦争の 苦しき体験 日々に薄るるを 78
母が味わった戦争の苦しき体験は結局書き残される事は無かった。しかし、同人誌に投稿さ
れた短歌が残っていた。歌の内容は技巧的・文学的というより日常の記録のようである。そ
の点、今読み返しても新しく知ることが多々ある。
29■若き日は 跣足のままに 桑園を 駆け巡るごと 草削りにき 81
桑園の草掻きを「桑原かんまし」と読んだのを思い出した。その時の光景を詠った短歌であ
る。跣足とは裸足、素足の事と辞書にあった。草があろうと無かろうと桑園の土を掻き回すだ
けでも土に空気を入れる効果があったと今では思う。ともかく、自分も桑原かんましで機械の
ように働いた事が記憶に残っている。若き日とは何歳位の時だったのか。多分十代の頃で
はないかと思う。妙齢の乙女の仕事歌で、裸足で元気に桑畑の草掻きをする姿は今では信
じられないと思うが、脳裏に刻まれた記憶に嘘はないと思う。
30■待ち待ちし くれなゐ淡き 合歓の花 秋篠の宮の 佳き日に咲けり 83
母は皇室の話題等を好んでいた。ネットで調べて見ると、秋篠宮は平成2年(1990年)6月29
日、学習院大学教授川嶋辰彦の長女川嶋紀子と結婚とあった。確かに、我が家の合歓の開
花時期と秋篠宮の結婚の時期は重なっていた。待ちに待った結婚式という気持と清楚な合
歓の花の開花が重なり母の気持ちが良く表れているように感じる。(2010/7/24)
31■パリの夜の ムーランルージュの 観劇は 八千八百円なれど 居眠る 86
海外旅行の一こま。愉快な光景ではある。
32■麦刈りに 汚れし乳房を 拭きもせず 子に含ませき 若きその日は 89
感謝の一言のみ。自分では辿れぬ遠き記憶ではある。
33■減食を せよと医師(くすし)に 言はれしを 守れば爪の 先まで飢うる 95
誇張のようでもあるし、本当のようでもある。晩年に自分の爪を見て何か言っていた事を聞い
たことがあった。
34■庭に伸びし 棕櫚の葉擦れの 音のして 肌に冷たき 越の雪風 105
庭に植えた棕櫚の木は見上げるほどの高さになっている。大きな脚立を使っても手入れが
困難になった。それでも、切らずに残っていたのでこういう歌ができたのだろう。
35■正月は 母の忌の月 思い出も 遠く遙けく 父母を恋ふ 113
父母を恋うという心情は自分が父母の晩年の頃になっても変わらないようだ。脳裏に深く刻
まれた記憶は、小さな記憶の積み重ねで形成されるようだ。大切なのは既に消えて無くなっ
たような日々の小さな記憶であるようだ。
36■生家より 母の来にしは お産の時 手縫いの足袋を 隠しくれにき 115
母の母の記憶があるのは幼少の頃母と実家にお客に行った時の記憶だけである。自分が
母になって孫の顔を見る頃ようやく母の気持ちが分かるようになる事もあるのであろう。
37■この家に 嫁ぎし頃は 点数制 衣料切符三枚に 婚のための四枚 116
昔の事を思い出すと芋づる式に色々思い出されたのか。戦前の物資の配給は聞いていたが
婚姻のために切符が配られたと知ったのは初めてである。
38■置き薬の 二箱あれど 来ずなりぬ 長く馴れ染みし 人も老ひしか 121
昔は、薬屋、洋服屋、八百屋等の行商が家庭に回ってきた。仕事で忙しい農家にとっては有
り難かった。何年もつき合っていると顔なじみになる。そういう人がぽつり、ぽつりと来なくな
る。老齢になっただけではなく、行商自体が時代に合わなくなった事もあるようだ。
39■裏山に 啼く山鳩を 朝々に 寂びさびと聞く 眼を病みてより 126
網膜剥離だったか。意気消沈としていた頃があった。レーザ凝固が良いという話を聞いて、
紹介を頂き、大学病院で当時としては最先端の手術を受けた。その後は、余病もなく遠くか
らカレンダーの日付が読めるほど視力は回復し、視力が落ちる事はなかった。早期治療の
成功例であろう。
40■我が古希を 祝いて鶴亀 七十を 千代紙に折る 孫娘等は 131
祖母と孫娘は相性がよいのだろうか。女の三代と男の三代はどこか異なるところがあるよう
だ。ともかく、孫娘等が祖母の年代になり祖母から大切な物を受け取ったと思えばそれだけ
でも意義があるのだろう。(2010/7/26)
41■老い二人 住まふは座敷の 古帯戸 落書きの跡残し 我が子育てし 132
あの柱の傷と同じように、家のあちこちには記憶に残る事件の痕跡がある。古帯戸の落書きについてははっきり覚えていないが、何本かのさんが折れており、それが自分の仕業であることは承知している。自分の子供が残した古傷もできるだけそのままにしている。
42■酔ひて 横になりゐる 夫の顔に ハイラルに負ひし 凍傷の痕 134
父の顔に凍傷の痕があったとは、不覚ながら気付かなかった。自分からも言い出す事は無かった。
43■馴れ染めゐし 八百屋の病みて 入院すれば 不便を思ふ 人の生きの世 135
農家に顔見知りの八百屋が行商に来ていた。家に無い物が買えたので重宝していた。
44■宿り木の 蔦(つた)蔓巻く欅 一本は 木の弱まりてか 早く黄葉する 136
何となく見ている光景であるがそこに観察がある。
45■甲府市の 夜景見すると 丘に立ちし 笛吹川は ネオンを映す 138
遠い昔を振り返って作った歌だと思うがその記憶は鮮明であったようだ。
46■硝子越しに 眺む外の面は 飽かざりき 鴉(からす)飛び来て 揺るる棕櫚の葉 140
同じ棕櫚の木を見て、時々に歌を読んでいた。思い出の深い植木ではあった。
47■昼過ぎて 風雲出でし たまゆらを 冬陽射し入る 吾がゐる部屋に 141
48■夫征きし 一夜を泣きて 父母の許に 行き度しと 願ひしこと幾度か 142
これも子育てが終わってから、父の出征を振り返った歌である。
49■戻るなき 月日刻みて 五十年 けふの金婚も 一炊の夢 143
50■雪積もる 重さに耐へず 竹割るる 音の響けり 爆竹の如 145
51■陽の去れば 夕は眠らむ 福寿草 飛びゐし蜂の 影もいづくか 146
52■毎年を 一家農家ら 順番に 春祈祷する 御嶽神を祀る 148
この風習も自分の代で絶えてしまった。
53■我が村に 嫁ぎこし頃 あづま道に 一里塚とふ 標(しるべ)のありき 149
54■遅れしと 剪定いそぐ キユウイの枝に 滴る樹液 透きて光れる 150
55■大島より 夫が買いこし 明日葉を 摘めば黄色に 樹液滴る 151
56■吹く風の 冷たき野辺に 蓬摘む 卯月も寒き 今日の一日 153
57■使ふなき 桑園はあらくさ 茂る中に あらせいとうの 花の群がる 154
追記(2024/03/15):「あらせいとう」とは「オオアラセイトウ」ハナダイコンと思う。タイトルに投稿期日を追加。
58■蚕飼ふ 人も老いくれば 白ヒトリは 桑園をくふ 手入れもせなく 155
59■今年も又 集団休耕 纏まりて 田植えもあらぬ 十年を経る 157
60■畦草の 覆ひ茂れば 草刈り機を 使う夫の身 われは気遣う 158
61■マルチングして 夫が播く 大根の 育ちの早し 甘みのありて 160
62■花の色 変われる頃に 青き実の 小さきがつく キユウイの棚に 163
63■松五本の 青下草の どくだみの 殖えなば殖えよ 力ある根に 164
64■馬鈴薯を 堀し土より 出でて来ぬ 百足は早し 赤き軟体 167
65■天安門の 中央に掲げる 毛沢東の 大きなる写真は 広場見守る 168
66■ 獄中の 江青夫人も 命絶ちて 四人組も生くるは あはれ二人とぞ 169
67■親子行けど 子供一人のみ 伴ひて 歩めるはさみし 中国の人 170
68■戦地より 吾に届きし 封筒は 検閲の印 青く押されゐき 171
69■書かれたる 文字消しあれば 夜の灯の 下に透かして 何かとぞ見き 172
70■墨沁みて 黒くなりしは 読みとれず 火力発電 砂糖黍などの文字 173
71■東部第 二一〇八部隊夫は 何処かと 日々を待ちたり 便りの来るを 174
72■陣地構築に 死にし孤島の 友を思ひ 軍歌をうたふ 夫を諾ふ 175
73■佐藤中将 ビルマ第一 師団長として 空路行くと 最後の便りありき 176
74■ノモンハンの 戦いに部下たりし 我が夫が 幾たび縁の ありし中将 177
75■雨期に入る ビルマアラカンの 山中に 弾なく食なく 兵は死ににき 178
76■兵多く 失いし戦いを 不本意と 佐藤中将言ひき インパール作戦 179
77■里芋の 葉は干魃に 枯れ初めて 赤き葉を手に 揉めば音する 182
78 ■一人居て 窓に眺むる 大王松の 針葉揺るる 風のままなり 183
79■姫りんごの 如き小さな 山査子の 実も色づきぬ 彼岸の庭に 184
80■ハンハーレーの 響きて揃う 発馬機に 昂ぶる馬は 騎手を落とせり 186
81■菊祭日に われらの金婚 祝ぐといふ 喜びもあり 苦しみもありき 187
82■戦時中 米と替えにし 鏡台も 皺深き我が面 いまだにうつす 188
83■色づきし 金柑の実の 数多つく 枝の撓みも 見るにたのしき 190
84■風吹く日の 市街環状線 自転車に 乗りて走れば 落ち葉舞う音 191
85■ 紅梅の 花にあそびし 鶺鴒が 尾を振りてもみぢの 梢移るなり 192
86■麦播かぬ 空田に竹の 枝囲み 古き達磨の 捨てられてをり 193
87■そらんずる 平家物語の 落花の雪 好みて蘇る その七五調 194
88■雪降る日に 村の長老 身罷りて 一年忌の今日 又も雪降る 195
89■食卓に 寒の苺の 艶めけり 買い来てくるる 娘の心根 196
89■寒あやめ 淡き春陽を 浴びながら 花開きたり 薄きむらさき 197
90■夏作に 紫蘇を播かむと 取り置きし 種を揉みいる 夫は気負ひて 198
91■旧海軍 司令部跡とふ 壕を巡るに 死にし司令官室に 花捧げあり 199
92■星砂の 浜に一人ゐて 物を売るあれど 寂しからむ 人影なくて 200
父は佐藤幸徳(WIKIPEDIA:1893年(明治26年)3月5日 - 1959年(昭和34年)2月26日))中将(ノモンハン当時は少将)の部下であり、戦後もその人柄を尊敬していた。母も歌の中で何度も佐藤中将を回想している。そんな縁で自分も父母を通して佐藤幸徳中将を知る事になった。昨年丁度、没後50年を迎えた事になる。改めて戦争が人間の生き様を見せつけていると感じる。父母が戦争の荒波を乗り越えられたのも何か奇跡のように思われる。(2010/8/4)