方丈記切読11:いとしきもの

2010/3/12

方丈記切読11

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』」

かつてアイデアプロセッサーというソフトがあった。文章の作成の補助をする。今日では、ワ

ープロもその機能を備えているようだ。長明さんは方丈記を書き始めるときどのような構想を

練ったのか。適当に読む順序を変えているが、冒頭には力を入れていると思う。多分、読者

を想定し、その読者の心情に沿う表現を選んでいるだろう。時の流れを振り返ると、ビデオの

早送りに近くなってしまう。見たい場面にはスローに切り替える。かつて高校の世界史の先生

が、カエサルの『VENI, VIDI, VICI(来た,見た,勝った)』という名言を教えてくれたのを思い

出した。伝えたいことを最も短く、明確に表現した例としてこの言葉を教えてくれたのだった。

授業の合間の一服という感じであった。しかし、これでは作品にならない。方丈記の冒頭は

無常観を表していると学んだような記憶があるが果たしてそうなのか。人や社会や自然の変

化を長年冷静・客観的に観察していないとこういう事は書けないと思う。ある現象と他の現象

の類似している部分を重ね合わせている。一種の相関性、類推性という視点で現象を捉えて

いる。個々の事象は変転きわまりないが、それを貫く変わらない何ものかがある。長明さん

はそれを掴もうとしている様でもある。変化の中に身を任せていれば変化に気付かないので

ある。自分の視点が定まった所に変化が観測できるわけだ。無常観に流されていれば、方

丈記等書く気になれないのではないか。無常観を突き抜けるとその先に、そういう必然性か

ら抜け出せない平等観も感じるのである。俺もお前も所詮同じ運命の下にある。自分は長生

きの最大の楽しみは物事の行く末を自分の目で確認できる事にあると思っている。自分の為

に書いているようだが、時にはそれが自分以外の人へのメッセージになっているようでもあ

る。当時の人が、方丈記を読めば、それとなく書かれた事が、ホントな事だとピントくる事が

書かれているかもしれない。