虫の音:いとしきもの

2010/4/10

虫の音

虫の音の波分くるごとさらさらと庭木の葉おと闇をわたりぬ

昭和萬葉集16巻。自然の姿 日月風雨の区分にあった短歌である本巻には昭和44年と45

年の歌が納められているが、どうしてもその時代のトピックスに目が向いてしまう。そうして、

胸が締め付けられる思いをする。社会は激動の中にあった。そんな中、自然を詠った歌に

は、どんな歌があるのかとページをめくっているとこの歌に出合った。自分も虫の音には、そ

の時々に感興を覚えるがそれをうまく表現できないでいる。多くの虫が一斉に鳴いている頃

はその音を聞く人間にもゆとりがある。最後の一匹が弱々しく鳴く虫の音には尽きせぬ悲哀

を感じる。そういえば、母は耳鳴りがすると言って久しかったが、ついに自分もその耳鳴りが

する年齢になってしまった。その耳鳴りの音を蝉のように感じる人といるようだ。いま、冒頭の

歌を読んでいると自分の耳鳴りは秋の虫の大合唱のように聞こえてくる。多くの虫が精一杯

鳴いていると雑踏のような雑音に感じてもよさそうなのだが、全体の流れの中に波のような強

弱が生じて来る。それを作者は虫の音の波くると波のようにとらえたようだ。その波が押し寄

せまた引いて行く。そんな、夜の情景の中にさらに耳を澄ませたのか、庭木の葉おとがわた

ってきたと詠った。それも虫の音のように強弱を伴って。凡人はついつい虫の音を主題にし

てしまうが、この歌の作者はその虫の音をバックに据えて、庭木の葉おとまで詠ってしまう。

当然、虫の音に全神経を集中していたから庭木の葉おともキャッチできたのではないか。波

分くるごとは如しという喩えなのか、繰り返しのリズムなのか。やはり、観賞上は波が押し寄

せまた引いて行くというようなリズム感にとりたい。当然作者は真っ暗の闇の中に自分を置い

ている。激動の時代にあっても、このような自然の中に身を委ねて至福の時を送れることを

この作者は教えてくれる。電気屋は波と来ればつい電波を思い出してしまう。そうして理想的

な通信システムを思い出す。アンテナはしっかり対象に向ける。自分からは極力雑音を出さ

ない。信号のS/N比を上げる。拾い上げた信号は解析器にかける。それを加工して表現す

る。こういう一連の作業の結果、この歌が生まれたのかもしれない。歌を詠むという行為を通

信システムになぞらえてしまったが、こういう一つ一つに作者(読者)のこだわりがあるのであ

ろう。通信は送信と受信が一体となって成立するのだろう。