大義無く保身の為に馬謖切る;読みかじりの記:ノモンハン戦争 田中克彦 著 (岩波新書 2009年)。20110527。

2011/5/27
昨日は曇り。AM雨の予報なので、ポリマルチ床を作りサツマ苗(ベニアズマ)を植えた。PMは休耕田の草刈。セイタカアワダチソウが群生始めた。多年草で根が残るのでこれは手で抜いた。例年ナタネの種を播いたり、こぼれ種でナタネが咲いたが今年は雑草ばかり。水路脇のリュウノヒゲを改植。はびこったチガヤ等の雑草の根を除去。ついでに水路の底のごみ浚い。伊勢崎の汚泥からセシウムが検出されたとのNHKニュースが流れた。放射能被害も風向きだけで変わる。原発事故被災地はこれから梅雨、夏の気候、台風等と予測できない自然の猛威の可能性もある。戦場と同じだ。きっと生き残って欲しい。

asahi.comは、「福島第一の海水注入中断せず 東電所長、本社に無断;url=http://www.asahi.com/national/update/0526/TKY201105260339.html(2011年5月27日0時16分))」というタイトルで、「東京電力福島第一原発1号機の海水注入問題で、東電は26日、一時中断したと説明してきた海水注入を、実際には中断せずに継続していたと発表した。東電本社と発電所の協議では、海水注入をめぐる検討が官邸で続いていたことから中断を決めたが、福島第一原発の吉田昌郎所長の判断で継続していた。国会でも追及された問題が根底から百八十度くつがえされた。」と報じた。

ざっそう句:大義
■大義無く保身の為に馬謖切る

ネット上では福島第一原子力発電所所長の処分を行うべきでないという意見が噴出している。当然だろう。本来、割腹すべき役柄の人物が義人の首をお上に差し出すような事があってはならないというのが世間の目であろう。歴史にはそのような愚挙が多発している。思うに現場を任された指揮官が、ぎりぎりの場面でどのような采配を振るかは命がけの判断を要求する。これは指揮官の階級とは無関係だ。指揮官の覚悟が結果を決める。

馬謖は諸葛亮に重用された指揮官。命令に違反して戦略を誤り魏軍に大敗と広辞苑にある。諸葛亮は自分が重用した指揮官と言えども人情に流されずに規律を選んだのだ。諸葛亮は「泣いて馬謖を切る」事により、大義を世に示したのである。

インパール作戦で大本営の命令に反して自軍を退却させた佐藤幸徳中将も戦場で決死の判断をした司令官であった。軍法会議で死刑は確実であったのである。

父は戦争の事を多くは語らなかったが、上官の佐藤中将は偉かったといつも語っていた。この未曾有の難局に臨んで、誰でも大義にかなった歴史に恥じない判断と行動をすべきではないか。

昨日の天気

TAVE= 16.2
TMAX= 18.5
TMIN= 14.4
DIFF= 4.1
WMAX= 2.8
SUNS= 0
RAIN= 7


読みかじりの記:ノモンハン戦争 田中克彦 著 (岩波新書 2009年)

追記(2019/08/15):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等

本書のあとがきに著者の所に司馬遼太郎の使いの人が来たことが記されている。WIKIPEDIAによると、「1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在は大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。」とある。著者は司馬遼太郎の使者の取材は即座に断ったと記しているが、司馬さんならすばらしい『ノモンハン』を書いてくれたのではないかとも記している。

自分は、父が20才代でノモンハン事件に従事し、そこで仕えた上官が後にインパール作戦の抗命で知られる佐藤幸徳少将(当時)という事でノモンハン事件に関心があった。

日本人は心のどこかで蒙古に惹かれる要素があるようだ。広辞苑によると日本人幼児の99.5%に臀部に蒙古斑が出るとある。著者は冒頭で従来のノモンハン事件をなぜノモンハン戦争と記述するかを述べる。

WIKIPEDIAによれば、著者は1957年東京外国語大学外国語学部第六部第二類(モンゴル語学)卒業。本書の内容もモンゴル語の理解を通して書かれている部分が多い。ノモンハンはソ連・モンゴル人民共和国、中華民国、満洲国に挟まれた辺境の地である。

本書は複雑な国境地帯の少数民族は、生存のために多くの犠牲を払うこともあえてせざるを得ないと教えている。国境紛争が起こるべきして起こったような地理的な位置にノモンハンはある。かつて、アジアからヨーロッパまでの広範な版図を誇った蒙古帝国はどうなったのかと思ってしまう。大国の狭間にある小国・少数民族の苦難とソ連の計画的領土・支配地域拡大のための周到的活動を改めて感じるた。

このような、領土紛争は陸続きの地帯では常態に近いのかもしれない。父が馬賊と言っていたのはノモンハン周辺の現地民族だったのか。

父の足跡を辿ると、昭和13年1月:臨時召集ニヨリ高崎歩兵第十五連隊補充隊に応召。昭和13年3月23日:ハイラル着ハイラル付近の警備。昭和13年5月13日:ハイラルニ在リテ第一次「ノモンハン」事件勤務二従事とある。

「ノモンハン戦争」のP10によると『[5月29日]十八時過ぎ、ソ蒙軍の第一線は既に陣地二重米(メートル)に近接し、東中佐以下二十数名は勇躍突撃に移り、全員、「護国の神」と化した(防衛庁454)』と記している。また、「この戦闘に、日本軍は二〇八二人が参加し、二九〇名が死傷、生死不明、特に捜索隊の消耗率は六三パーセントだと牛島氏は記録している(80)」とある。

父の足跡と本書による戦史とを重ね合わせると、一兵卒としては何の記録も残していないが、生死を分ける戦場にいたことようやく実感をもって理解できた。自分はノモンハンを何もない砂漠地帯と思っていたが、本書によるとノモンハンという地名は「ノモンハーニー(ノモンハンの)・ブルド・オボー」という塚(オボー)に由来するの事だ。砂漠ではなくオアシスのような地帯らしい。このオボーというのも遊牧民族にとっては一種のランドマークであり宗教的な施設でもあったようだ。

ハイラルをWIKIPEDIAで調べると現在では20万の人口がある。ロシアの娘さんはきれいだったという、父らしくない冗談は、本書によれば本当だったように思える。迫害を逃れて満洲(著者はサンズイの洲にこだわる)国きた白系ロシア人もいたと記している。ノモンハン地帯も国際的な歴史の中で大きく揺れていた事は本書で理解できた。

昭和14年8月29日~:「モホレヒネーオボ」付近の警備とあるが、Google検索で「モホレヒネーオボ」を入力しても、何も返ってこなかった。これが当時の地名だからなのか。ノモンハン事件に関しては戦史的な書物は多いようだが、自分がなぜノモンハンに関心を持つのか漠然としている。日本が敗戦に突き進んだトリガーポイントがノモンハン事件(戦争)だったからなのか。

以下本題。

かみつけ女流歌人 雅:裾の秋色

歌題=裾の秋色:

■赤城嶺の 紅葉前線 下りきて 広き裾野も 秋色となる 77 富田 京子

見慣れた風景も歌にして気付くことがある。赤城の裾野の秋色もその一つ。