技術 回顧と展望:新しいエネルギー政策は新しいコンセプトで取り組め

2011/5/19
昨日は適度のかぜがあり、みどりのそよかぜ~を感じる好天であった。道路脇の生け垣と公共スペースの草刈をした。その刈りゴミは定植したミカン樹のマルチ材に利用した。ゴミも資材と考えるともう少し余計あればと欲が出る。使用したのはタナカの刈払機(ここに、その記事を以下に書いてあった。:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/09/post-b0c1.html)。タナカは定評がある小型エンジンの技術を持っていたとの事だ。しばらくぶりでエンジンをかけたが、一発スターターを引いただけでかかったので気持が良かった。

昨日の天気

TAVE= 19.5
TMAX= 26.1
TMIN= 12.6
DIFF= 13.5
WMAX= 3.9
SUNS= 10.7
RAIN= 0

朝日新聞は、「発送電分離、首相が検討意向 保安院分離も言及;url=http://www.asahi.com/politics/update/0518/TKY201105180464.html(2011年5月18日20時59分))」というタイトルで、「菅直人首相は18日、首相官邸で記者会見し、昨年6月に策定した政府のエネルギー基本計画を見直す中で、電力会社から送電部門を切り離す発送電分離を検討すべきだとの考えを示した。また、原子力行政の見直しに言及し、具体的な課題として経済産業省から原子力安全・保安院を分離することを挙げた。」と報じた。この朝日の記事は本日の「技術 回顧と展望」で書いた事に関係するので興味を持って読んだ。しかし、どうもその場しのぎの人気取りの放言に終わってしまいそうに聞こえてしまう。物事には5W1Hという条件が伴う。東日本大震災の地震、津波、原発事故の事後処理という喫緊の政策課題の解決が山場を越えて、政権が信任されてから言い出したらいかがか。

技術 回顧と展望:新しいエネルギー政策は新しいコンセプトで取り組め

計画停電は3月中から3月末までの約2週間実施された。その大義名分は大規模な停電による社会の混乱を防止することであったように見えるが、自分としては東京電力福島第一原子力発電所の原子炉事故から世間の目をそらすために強行されたようにも思われてしかたがない。要するに、計画停電をする必然性を証明するデータはその当時国民に目の通る形では公表されていないのである。また、計画停電を実施せずともこの夏場は乗り切れそうだという現状もある。結果から見ても、東京電力は社会に原発事故で社会に大混乱を起こしただけでなく、その顧客にも計画停電で大混乱を起こしたという二重の責任を負わなければならないのだと思う。電力供給が危機的状態になるという正確な情報が適時開示されれば、それに対応するだけの能力は国民にある事が、今回の計画停電でも実証されたと思う。問題は、安定な電力供給を唯一の任務とすべき東京電力が、自分が起こした原発事故をしり目に、自分が支配している電源スイッチを勝手に使い給電を断ってしまったという法治国家にあってはならない事をしてしまった事である。電気供給約款に完全に違反した行為であった。電気供給約款では給電を停止する時はそれを十分周知しなければならないと規定しているのである。浜岡原発の停止が決定して、日本の電力事情も激変しつつある。電力の安定供給はその生産と消費の整合にある。いわば余っている電力を不足している地域に融通することで、蓄えることができない電力を有効に使うことができる。ところが、東日本が50ヘルツ、西日本が60ヘルツと周波数が二分している事が電力の融通を妨げている。周波数が異なると使えない電気製品を作り分けするという産業上の無駄も生じている。これは、日本の電力技術が未発展であった時代の技術導入の先見性の無さを示す負の遺産でもある。政府も電力会社も、国家の基本的な問題ではあるが、電力周波数問題には積極的には手をつけようとしていない。しかし、クールビズというような浮かれた対策より日本のエネルギー政策の根幹にある問題がこの電力融通の問題ではないか。縦に長い日本はそれに応じた気候・気温の変動をする。この変動も電力供給に生かす事が可能だろう。綿密な電力融通体制が整えば発電設備の利用効率も向上し、大規模な天変地異による一部の地域の発電停止の場合でも電力を確保できる危機管理システムとしても機能する。電力事業の地域独占から発電と給電に会社を分割して各事業分野への第三者事業者の参入を認めるような大改革が必要な時期になってきたと考えられる。その第一歩が東西地域の電力の融通ではないか。すでに超伝導リニア新幹線も実用間近である。エネルギー政策を見直すのなら、電力損失の少ない超伝導送配電システム等夢のある事業も進めて貰いたい。

ざっそう句:雑草と共生

祖母が常々、百姓は次の仕事が見えないようではだめだと小言を言っていたのを思い出す。草退治はその気になれば無限にある仕事だ。雑草の無い田畑は農家の誇りでもあった。また、母の草かきの歌を思い出す。

■若き日は 跣足のままに 桑園を 駆け巡るごと 草削りにき

稲も、田の草取りと言って、たんぼの中に四つ這いになって害草を除去する仕事があった。その後は八反取りとか手押し水中車のような器具を使った仕事がそれに代わった。子供の頃は手作業と八反取りを手伝った記憶がある。その後は除草剤の使用に変わってきたと思う。退職後は雑草対策に悩んでいる。しかし、それだけでは精神衛生に良くない。一方では、トラクターで雑草をうなえば良いと忠言してくれる人も多い。雑草対策だけでトラクターを使うのも割り切れない。結局、雑草とは征服すべき敵ではなく支障のない範囲で共生しなければならないのではないかと思っているのが今の心境だ。かつて作った以下の句はそんな揺れる気分を反映しているようだ。

■雑草に追われて伸びる無精ヒゲ
■雑草も育てる慈雨に泣き笑い
■雑草よ一年たったらまた伸びよ

以下本題。

かみつけ女流歌人 雅:「糸尻」より

歌題=「糸尻」より:

■川底まで 透きて流るる この水の どの辺りにて 濁りそむるか 69 田村 朝子

澄んだ水と濁った水を対比して、川の水が流れ行く先までも想像しようとする視点の斬新さを感じる。