リンクリスト削除版:2011/8/4

2011/8/4
昨日は午前曇り。午後晴れ間。朝は予定の仕事。その後は下草刈り。苗が見えない!という状況。苗を切らないよう手刈り。懲りもせず、毎朝XPパソコンのSWを入れる。電源コードは一晩抜いておく。朝なら1~2回は起動する。BIOS SET UPが立ち上がりチェックサムエラーが生じたのでデフォルトで起動というようなメッセージが出た。CMOSが怪しい。CMOSをバックアップしているリチウムイオン電池がへたっているのではないかという予想である。福島原発事故も電源バックアップのトラブルがその根元にある。パソコンでも同じではないかという連想である。夕方は慣れないセールス。趣旨を話すと快く協力してくれた。こぼれ種のマリーゴールドが通路にはみ出している。挿し木をしてみたい。

追記:BLOG エディターから出てブラウザから見ると折り返し表示とならない。本文が長かったり、構文が複雑になるとBLOG エディターも手こずるのか。投稿にかかる時間も増えている。リンクリストが無い場合を試してみたい。

2011/8/3の天気

TAVE= 26.0
TMAX= 30.7
TMIN= 22.9
DIFF= 7.8
WMAX= 4.1
SUNS= 2.3
RAIN= 0

最高気温(℃)= 31.1 (14:18 )

雑木の歌:パソコン痴呆症

■人並みに俺のパソコン痴呆症電池を替えりゃピンと立つかも

読みかじりの記:医局の庭 菊野恒明 著 (2009年 北冬舎)

「菊野」とはどこかで出会った姓のようだった。たまたま同じ書店の同じコーナーに並んだ歌集があった。著者の父の歌集であった(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/07/post-38a3-1.html)。本書に出会ったのもわずかな時を隔てただけの時で偶然にしては運が良すぎた。人生の曲がり角に来て、学会誌、専門書、業界誌、技術雑誌と徐々に本の出費をリストラして、最後のオアシスである古書店での巡り会いだ。父子共に医師で共に歌人とは偶然ではないようだ。何か共通するDNAがあるのではないか。著者略歴によると精神科医との事だ。精神科とはある特定の精神が別の特定の精神を判断すると言うことで何か難しそうな印象を受ける。一読すると難解の歌もあった。歌ができるのも歌を観賞するのもその時々の条件によるだろう。今回は口語的で印象に残った歌をピックアップしてみたい。歌題、詞書は省略する。

■八十を過ぎて短歌を始めたる父の力を羨しみけり

ともし・む【▽乏しむ/▽羨しむ】:[動マ下二]もの足りなく思わせる。うらやましがらせる。
「恋しくは日(け)長きものを今だにも―・むべしや逢ふべき夜だに」〈万・二〇一七〉(提供元:「デジタル大辞泉」)。息子にとって父親は乗り越えるべき存在なのだろうが...。

■とりあえずヒメジョオンと呼んでおく直径一センチばかりの頭花

旧字、文語体だと必要以上の緊張感が漂ってしまう。この一首肩の力がぬけるように感じる。

■頬杖をつきつつ眺むる心電図蟻がf波の上を横切る

自分と全く無関係な蟻が関係を持ってくる。具体的で心情的ではないが俳句のように一瞬をとらえているようで作者固有の一首だろう。

■もう一度カルテつぶさに読みかえしやはりこれしかないと呟く

呟くのは内発的な口語だろう。素直に医師の内発語を聞く思いがする。

■正常と狂気のあわいを行き来してときには作り笑いもするさ

文語で歌を作るという強迫観念から解放されたような感じを受ける。

■点線にてとり囲まれし領域を文具売場の地球儀に見つ

これが世界の現実なのだという発見のように思われる。

■一坪の医局の庭に日が射せば心ゆたかに朝がはじまる

何の説明も解釈も必要がないが、平凡で貴重な毎日が詠い込まれているようだ。

■リモコンをぽんと布団に並びにげやって高き精神(こころ)はわれにあらず

自分の心象と行動がぴたりあった一瞬を捉えているようだ。

■割り切れぬ数字を処方箋に書く当直の夜に写経のごとく

表現は具体的だが意味は読みにくいところにこの一首の存在感があるようだ。

■杉の枝ところどころにうっすりとところどころにずっしりと雪

他者を意識せずに遊び心のような気分で雪の風景を詠んでいるところが良いのだろう。

■二十数両なる貨車をゆるゆると機関車がひき踏切をゆく

一枚の絵のような一首。

■社宅なるアパートの部屋に寝ころびてゆるやかにゆく雲をみつめる

究極のリラックス。

■スナックに歌をうたえばわが顔の暗し暗しと媼からかう

本当かとぎょっとする。

■アトリとは a bird かも指さされ初心者われは真面目に思う

アトリとはスズメ科の小鳥との事。父親の歌にもユーモラスなのがあった。所詮歌も遊びと割り切れれば面白いのかもしれないが、一種のプラシーボ効果もあろう。ユーモアも解毒剤として必要不可欠かもしれない。

■はるかなる夕日の中へ「われ思うゆえにわれあり」ととなえつつゆく
■秋更けて一人医局に過ごすとき我は唯心論者となるつ

精神科医の心のゆれと解放。そこに歌があるのか。「われ思うゆえにわれあり;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86%E3%80%81%E3%82%86%E3%81%88%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A;(最終更新 2011年7月22日 (金) 12:34 )」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「我思う、ゆえに我あり(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito, ergo sum)は、デカルトがフランス語の自著『方法序説』(Discours de la methode)の中で提唱した有名な命題である。ラテン語訳Cogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito = 私は思う、ergo = それゆえに、sum = 私はある)は、デカルトと親交のあったメルセンヌ神父によるもので、デカルト自身はラテン語の著作『哲学原理』(Principia philosophiae)で初めてCogito, ergo sumと記述している。」とある。デカルトも西洋の合理主義の泰斗の一人だろう。唯心論者とはその対極者になるのではないか。でも歌は論理の世界と言うより情念の世界に合いそうだ。

■常勤医マイナス一をシミュレートしているような配置転換

組織の論理は時には個人にとって冷淡ではある。会社生活の中で、家を新築していざ入居という段になって海外転勤を命ぜられとという人がいたという話を聞いたことがある。この一首まだ院内の事のようだが...。

■これがかの肩たたきかもしれないと院長の言つつしみて聞く

サラリーマンになってすまじき事は宮仕えと我ながら何度思ったことか。でもそういう勤務医としての経験も人生の幅の広さになるときがあるのではないか。現代のサラリーマンはもっと露骨でえげつない肩たたきに会っているのではないか。

■二秒ずつ時計の針が進みゆく電池の寿命尽きむとすれば

電池は蓄えられた電気を放電して仕事をする。電池の寿命が迫れば本当の時計なら遅れてくるだろう。電池の寿命とはまさに作者の職場人生の定年という寿命なのだろう。それが近づくとカウントダウンの如く短い時間に雑用が増える。そうして時計の針は早く進んでしまうように見える。

■おおかたを医局で過ごす毎日に定年間近き立夏の雨が

定年後も色々な勤務形態で仕事を続けることは出来るだろうが、地位も身分も給料も様変わりするのが世の常かもしれない。それでも資格や技術が身を助けてくれるだろう。

本書の中には酒の歌も目立った。しかし、自分の酒は付き合い程度。自分から入る本当の酒の境地は彼岸にある。精神科医とはまさに精神と精神のバトルの中にあるのかも知れない。一種の見えない敵とのゲリラ戦に見える。自分には少数の狂気が正常で多勢の正常が異常に見える事がある。現代はまさにそういう時代でもあるのだろうか。著者は自分と同じ世代に属する。自分の父は歌を詠むほどのユトリがなかった。父と同じように歌が詠めるのはうらやましい限りだ。ともかく、著者が父と似た足跡を辿るとするとその前途は長い。先人達は次々に去り、やがてその番が自分たちに巡ってくる年代に入っている。漠然とそんな事も頭に浮かんできた。