2012年10月7日日曜日
昨日は曇り時々晴れ。夜雨。最高気温(℃) 26.2 14:59。夏日。ざっそう句:雨恨み 夜の刈田に ペダル漕ぐ。朝、先日の作業の後かたづけ。その後、大根と赤蕪を間引いた。運良く食卓に上がる。用事外出。駅の駐輪場に自転車を止めた。その隣接地が工事中で、作業員が立っていたので何の工事かと聞いたら、何と顔見知りの人だった。作業服にヘルメット姿で誰かと分からなかったのでびっくりした。駅周辺の区画整理で、水道管、ガス管等の埋設工事をしているとの事。自転車外出の楽しいハプニングだ。帰路は書店で週刊誌立ち読み、文庫本一冊。外は暗くなり雨がパラパラと降り出していた。傘もささず、最初は気楽だったが、雨粒が少しずつ大きくなった。車の少ないたんぼ道を走ったが、車とすれ違う時は危険を感じる。帰宅時は肌まで濡れた。だが、荷カゴの文庫本はレジ袋無しでも無事だった。いつもは、カバーは不要と言っているが、今回はカバーを付けてもらった。運が良い。夜間、雨の中の自転車走行も、道草を食わなければ起きないハプニングなのだが。
2012年10月6日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 21.9 | |
TMAX= | 26 | 最高気温(℃) 26.2 14:59 |
TMIN= | 17.9 | 最低気温(℃) 17.9 24:00 |
DIFF= | 8.1 | |
WMAX= | 5.6 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 11.5(西北西) 23:31 |
SUNS= | 2.3 | |
RAIN= | 8.5 |
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ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):「鶴舞う 形の 群馬県」のルーツを探る
群馬県人ならば、上毛カルタの「鶴舞う 形の 群馬県」に愛着を感じている人が多いと思う。群馬県をツルが舞う姿に見立てたルーツはどこにあるか気になっていた。鶴と亀は日本人にはなじみ深い。一昔前なら、ツルとかカメが名前の一部であった人名も多かった。そこで、WEB調査をすると、石原和三郎の「上野唱歌」に出会った。
Googleによる「石原和三郎 上野唱歌」の検索(http://www.google.co.jp/#hl=ja&site=&source=hp&q=%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E5%92%8C%E4%B8%89%E9%83%8E%E3%80%80%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%94%B1%E6%AD%8C)。検索結果:約 823 件 (0.12 秒)。
以上の検索で、かなりの情報は得られる。そこで、国会図書館の「近代デジタルライブラリー - 上野唱歌」を見ると、「上野唱歌」という本の画像情報が得られる。
以下の記事は、この近代デジタルライブラリー の「上野唱歌」を参照して書いた。
見開き
東京音楽学校講師 田村 虎蔵 作曲
前高等師範学校訓導 いしはら わさぶろう 作歌
奥付
発行:明治33年11月16日
発行者:合資会社 冨山房
定価:6銭
石原和三郎について知るには、「石原 和三郎 - 群馬県立図書館ポータル。http://www.library.pref.gunma.jp/index.php?page_id=251。」が役立つ。このサイトでは、「石原和三郎略歴 慶応元年(1865)~大正11年(1922) もしもし亀よ亀さんよの「兎と亀」をはじめ、「金太郎」、「花咲爺」、「大黒様」など、誰もが知っている名唱歌を残した作詞家、教育者。勢多郡東村花輪生まれ。明治24年(1891)群馬師範学校を卒業し、郷里の花輪小学校訓導兼校長に就任すると直ぐに、当時としては珍しいオルガンを導入している。 この頃の唱歌は旧弊な美文調で児童には難解だったため『小学唱歌集注解』を刊行。東京高等師範学校附属小学校に招かれて音楽教諭の田村虎蔵に出会うと、小学唱歌革新に意気投合し、子どもの歌は子どもの言葉で、と画期的な言文一致唱歌を創始し全国で大人気を博す。 『国語読本』編纂のため招かれて冨山房に入社後も作詞を続け、明治33年刊行の『教科適用幼年唱歌』掲載作品の半分は、和三郎作の親しみ易い歌が占め、児童の心を潤した。石原作品は百数十曲を数え、郷土を歌った『上野唱歌』『上毛の歌』は県民に愛唱された。短歌、日本画、書道にも優れ、万岳または翠江と号す。 平成元年、郷里のみどり市東町に彼の生い立ちや写真、自筆原稿、書や絵画等の資料を集めた「童謡ふるさと館」が開館。 旧花輪小学校記念館と群馬大学教育学部には、「童謡の父 石原和三郎先生」の碑が建てられている。」と紹介されている。
「上野唱歌」が、「冨山房」より発行されているのも上記の記事で納得できる。「上野唱歌」の第一番が、
『 晴れたる空に舞ふ鶴の、
姿に似たる上野は、
下野、武蔵、岩代や、
越後、信濃に境ひして』
である。
各ページの上部の欄に注意書きがあり、このページには、下野(東)、武蔵(南)、岩代越後(北)、信濃(西)と注意が記されている。この歌詞は単に上野の国の外形だけを述べているのではなく、その四方の隣接地域名も盛り込んでいる。驚いた事には、本の最初のページに、群馬県を鳥瞰したような「上野国略図」が添えられている。まさに、歌を覚えれば、地理も自然と覚えるような教育的な配慮がされているのに気付いた。この地図がまさに、「鶴舞う 形の 群馬県」のように、飛んでいるツルの姿を表すように描かれているのだ。ツルの口の部分に「板倉沼」、目の部分に「城沼」が描かれている。山々は、ツルの羽ねのようでもあり、上空から見た立体図のようにも見える。この地図にも石原和三郎の創作者魂が読みとれるのではないか。
実は、もっと驚いたのは「上野唱歌」の表紙であった。「上野唱歌」という文字の背景になっている黒いヒョウタンのような図柄は、桑の葉だろうとすぐ気付いた。右上のラベルの脇は白くなっており、最初にちょっと見ただけでは紙が破れているのか、汚れか何だか分からなかった。よくよく見ると、それは蚕の蛹が羽化した蛾の姿であった。この表紙を見て思い出すのは、小学生中学年の頃、担任のO先生から蚕のように変身して立派な人間になりなさいというような趣旨の年賀状を貰った事である。
石原和三郎が教育者として、「上野唱歌」を教育的配慮で作ったとすれば、その表紙には、石原和三郎が願うメッセージが込められているのではないか。群馬県の養蚕は、江戸時代から終戦後まで盛んであった。凡人には、養蚕と言えば、蚕と繭が頭に浮かぶだろう。なぜ、「上野唱歌」では、蚕と繭が表紙に登場しないで、桑の葉と蚕の蛾が登場するのか。石原和三郎は教育者的な信条から、蚕の前には桑がある、繭の後には蛾(蚕種の元)が生まれる、もっと全体を見よと、教育を養蚕になぞらえて、総合的・体系的にとらえ、教育の理想を「上野唱歌」の表紙として表現したようにも見える。
従って、「上野唱歌」の表紙は、我が担任のO先生のように生徒や読者に向けた学業勉励に対するメッセージともとれるし、もっと広く、群馬が、蚕が蛾に変身するように、大きく発展する事を願ったものともとれるのではないだろうか。「上野唱歌」は第49番まである。
49番が、
『 ことに帝都に近ければ、
人の知識は日に進み、
文化は月に開け行く、
めでたき国よ、よき国よ』
で終わりとなる。
まさに、「上野唱歌」は、石原和三郎が心に描いた、わが古里への賛歌である。群馬県人が、「鶴舞う 形の 群馬県」という、上毛カルタの一札から思い出す物事は、石原和三郎の創作の世界に通じているのではないか。このWEB版「上野唱歌」には曲も掲載されているが、楽譜が読めないのでその曲をイメージできない。是非聞いてみたいものだ。
「上野唱歌」の表紙(左)と掲載の群馬県地図(右)。
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追記(2017/11/12):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
この記事は現在アクセスランキング第6位に入っている。上毛かるたは、現在でも群馬県民の意識のどこかに潜んでいる言えるだろう。だが、余りにも画一的になると、効果より弊害が目立つような事にならないか心配だ。上毛新聞社は今年、創刊以来130年を迎えるに当たって、新しい切り口で、現代版上毛かるたを作ったらどんなものが出来るか、読者からその作品を募集した。結構ユニークな作品があって、画一化を危惧する心配もなさそうだ。それでは、「鶴舞う 形の 群馬県」に代わりうる、群馬県を一口に表現できるかるたはあるのか、出来る可能性はあるのか。すぐには、思いつかないが、群馬県が飛躍的に発展すれば、その可能性は、ゼロでは無いはずだ。一時、首都移転論が盛んになった頃があった。群馬県も首都の候補にはなり得る。それが、実現すれば、「日本の中心 群馬県」と読んでも、良いわけだ。「上野唱歌」は第49番まであり、第49番の内容は前記の通り、壮大である。石原和三郎は、群馬県が帝都に隠れて沈没する姿では無く、帝都に比肩できる輝きが持てるのだと言っているように読める。「鶴舞う 形の 群馬県」から、鶴が飛んでいる姿を連想するだけでは、石原和三郎の描いた群馬県のイメージにはまだ遠いのかも知れない。