ハトよ 鳴いておくれ(愛しき古里):同聚院に関重嶷父子の墓を見る

2013年5月10日金曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 29.4 15:41。ざっそう句:仕事投げ 遊ぶ極楽 極楽だ。真夏日に近い夏日。行事外出。一昨日の悪天候が一転して、最高の気候の中無事終了。帰宅後一服して用事外出。気分転換にUTUBE で三橋美智也を聞く。その後、気まぐれに色々なキーワードで検索していたら、『【完全版】ダライ・ラマ14世法王 特別講演[桜H24/11/23] (https://www.youtube.com/watch?v=WT1ZT-324rQ)』という動画に出合った(アクセス数12,464 )。以前、「東北の海よ:ダライ・ラマさんありがとう(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/11/post-7853.html)。(2011/11/8)」という記事を書いた。昨年末、参議院議員会館の大講堂で国会議員の前で ダライ・ラマがこのような講演を行い、それがUTUBEで公開されていたのにはびっくりした。1時間以上の長い動画だが音声をBGMのように聞きながらこの記事を書いた。背景にはチベットの人権弾圧があるようだが、この講演開催に関しては、与野党の議員が人権という問題に関しては同一歩調をとり、チベット支援の立場をとっているようだ。人類70億人の一人という謙遜さと気さくさで語りかけて、そこから自然にダライ・ラマの人間性が伝わってくる。

2013年5月9日の天気(AMEDAS)

TAVE= 19.2
TMAX= 28.4 最高気温(℃) 29.4 15:41 
TMIN= 10.3 最低気温(℃) 8.4 03:32 
DIFF= 18.1
WMAX= 5.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.8(西北西) 00:43 
SUNS= 12.7
RAIN= 0

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ハトよ 鳴いておくれ(愛しき古里):同聚院に関重嶷父子の墓を見る

先日、同聚院の墓地で、初めて関重嶷父子の墓を見る事ができた。説明板をデジカメで写したが真っ黒で読めない。墓は東西に3基並んでいた。西から、
関譲齊平当義之墓、睡?(山+同:スイドウか)関重嶷之墓、関都守平重邑墓
とあった。

墓の基台は二段、墓碑銘に戒名や院号らしいものも含まれずに、実に簡素な印象を受けた。中央が「重嶷之墓」であり、その文字の上に二文字あるが、判読できない。コトバンクによると、、「関重嶷 【せき-しげたか】http://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E9%87%8D%E5%B6%B7。」という項目で、「字(あざな)は子岐。通称は助之丞。号は喚醒,睡?。名は「しげさと」ともよむ。」とあった。どうも、「睡?(山+同:スイドウか)」と書かれているように見えてきた。「山へんに同(仮に「Y洞」を充てる。)」という漢字はWIN XPで扱えないようで、その漢字は「?」に置き換わってしまう。漢和辞典では「山中のほらあな」という意味で「洞」に通じるらしい。当然、ほらあなは深ければ深いほど暗いのだ。

関重嶷之墓の西側の父の碑名には、「譲齊平」、東側の碑名には「都守平」が加えられている。この部分が死後に送られた贈り名に相当するのだろうか。そうすると、「平」とは「たいら」と読めそうだ。現代風に書いて、「関 譲齊平(じょうさい たいら)の当義(まさよし)の墓」と読めば、簡素でも何の不足もなさそうだ。そうすると、東側の「関都守平重邑」とはどんな人なのかと興味は募る。

碑名の書式から見ると、関重嶷の墓碑銘は、自分の号だけを先頭に乗せただけで、最も簡素である。後世は「関重嶷」だけでその存在と所行を評価してくれるだろうという自負心の現れのようにも感じてしまう。それでは、関重嶷の号「睡Y洞」からどんなメッセージが読みとれるのか。漢字源によると、「睡」はまぶたを垂れて眠る事に通じるとの事。「Y洞」も「山中のほらあな」。従って、
「睡」も「Y洞」も「暗い」に通じるのである。また、「睡」は動作・状態であり「Y洞」は場所でもある。

アイオー信金ホームページの「いせさきフロンティア あなたの知らない28 人の伊勢崎の偉人達(http://www.io-web.jp/info/local/PDF/frontier.pdf)(元伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館長 板橋春夫著)」の関重嶷の項に、「寛政9年(1797)には伊勢崎藩の国家老となった。重嶷はぎょくすい)から朱子学を学び、領民の教育に配慮した庶民教育施設「郷学(ごうがく)」の発展に尽くした。」

WIKIPEDIA「朱子学。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E5%AD%A6#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.B8.E3.81.AE.E4.BC.9D.E6.9D.A5.E3.81.A8.E5.BD.B1.E9.9F.BF)」

関重嶷(コトバンクの記事):宝暦6年9月3日生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)伊勢崎藩家老。儒学を村士玉水(すぐり-ぎょくすい)にまなび,史学にも精通。天明3年の浅間山噴火の記録「沙降記」,地誌「伊勢崎風土記」をあらわす。天保(てんぽう)7(1836)年12月17日死去。81歳。

時代は関重嶷没後32年で明治維新を迎える(1868年)。自ら名乗った、「睡Y洞」という号は、学問、為政、実践倫理等々関重嶷の思想と行動の中に一貫して流れる、自戒、謙遜という姿勢を問わず語りに語っているようにも感じられる。そうして、墓碑銘も「「睡Y洞」関重嶷之墓」と単純きわまりない。来るべき時代を見通しているようだ。

伊勢崎市のホームページは、市指定史跡として「関当義・重嶷父子の墓(せきまさよし・しげたかふしのはか)。http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1355381199653/index.html。(2013年2月13日更新))」というタイトルで、「関家は代々伊勢崎藩の年寄(家老)職を務めた家柄であった。当義は飢饉や浅間山大噴火による利根川洪水被害の領民救済に務め、重嶷は山崎闇斎派の朱子学を究めた人物で、藩校学習堂の設置や領内に八校の郷学を興した。ともに朱子学的経世観をもって藩政にあたり、治世に大きく貢献した。当義、重嶷の墓は、同聚院墓地のほぼ中央に並んでいる。」と紹介している。
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三枚の写真を連結。

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