読みかじりの記:半導体に賭けた40年 岩瀬新午著 (1995年 株式会社 工業調査会)。20130710。

2013年7月10日(水)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 36.7 15:44。ざっそう句: 夏草や 朝露吸って 枯れ凌ぐ。通路脇草刈り。そこにジニアを移植。ジニア、マリゴ区画除草。そこのジニア追加移植。ニンジン種子採取。夕方ゴボウとオクラ区画灌水。

2013年7月8日の天気(AMEDAS)

TAVE= 30.0 NO DATA
TMAX= 35.8 最高気温(℃) 36.7 15:44
TMIN= 24.2 最低気温(℃) 24.0 05:21
DIFF= 11.6  
WMAX= 5.1 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 9.4(東南東) 18:06
SUNS= 12.2 NO DATA
RAIN= 0 NO DATA

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読みかじりの記:半導体に賭けた40年 岩瀬新午著 (1995年 株式会社 工業調査会)

本書を読みかじって、本書は著者一代の歴史であると共に日本の半導体の歴史でもあると感じた。半導体ビジネスは、その初期は物量と労働力が中心で軽工業的であったのに、市場が拡大するに従い装置主体の重工業のように変貌した。そのような歴史の中で、半導体の種まきから、育成、収穫までを一貫して体験した結果が本書に結実しているのであろう。

著者は、日本で最初のトランジスタ動作の確認の様子を細かく書いている。成功の基本が「運、鈍、根」にあったと述べているが、トランジスタが時代の脚光を浴びていたのも事実だろう。自分が学生の頃、モレクトロンとかいう電子部品が新聞に載った記憶がある。今後、新しい電子部品が生まれてくるのだろうと漠然と期待していた。

半導体に賭けた40年 岩瀬新午著の概要;
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/2534696.html
Iobhandoutai_40nen_hon_iwase_s_2
「赤紙をもらって工場へ(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/05/post-45e6.html)。(2009/5/7)」

「技術 回顧と展望:赤紙をもらって量産ラインに直行した頃(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2012/06/24-b1a1.html)。(2012年6月24日日曜日)」

本書を読んで、在職中の事を思い出した。新しい事を始めると、前例のない事に直面する事が多い。また、装置や道具も既製品がないので自作する事も多い。本書を読んで、改めてそういう目先の課題を自作してでも解決する事の大切さを再認識した。

学生時代は、卒研に使う装置・道具を自作している例がかなりあった。半導体素子を研究した研究室では拡散炉も自作していた。その拡散炉でPN接合ができたと喜んでいた旧友を思い出す。自分も、エサキダイオードの特性測定に使う電源を自作した。その時は、まさか仕事でレギュレータの開発をしようとは予想もしていなかったが、学生時代の経験も役に立った。

Googleによる「岩瀬新午 三洋電機」の検索(http://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&output=search&sclient=psy-ab&q=%E5%B2%A9%E7%80%AC%E6%96%B0%E5%8D%88%E3%80%80%E4%B8%89%E6%B4%8B%E9%9B%BB%E6%A9%9F)。

職場では、色々な勉強会もした。著者も勉強会や啓蒙活動を色々した事を本書で語っている。やはり、物作りは人作りがなければ永続しないのであろう。三洋電機の半導体部門が大きな会社に匹敵するまで成長できたのも、そこを任せられる人材がいたからではないかと思う。その三洋電機半導体部門も現在では、オンセミの傘下に入っている。世代交代が進み、自分と一緒に仕事をした同僚も少なくなっているが、まだDNAは引き継がれているのではないかと、同社の製品一覧を眺めながら思ったりしている。

著者は、業績不振で事業部長降格になった事をあっさりと述べているが、振り返ると経営的に非常に厳しい時もあった。景気の後退・需要減の時には、諸悪の根元である在庫圧縮のため、製造部門は仕事を休み自宅待機や出勤しても本来業務以外の業務を迫られた事もあった。しかし、当時は大量解雇は無かった記憶している。

半導体の景気には、五輪景気というジンクスがあり、谷があってもやがて山も巡ってくる。その時、人材を確保しておかなければ乗り切れないという読みもあったのだろうか。自分は、製造部門は詳しく知らないが、本書に登場する製造部門責任者が発行する赤紙で、たびたび工場に呼び出された記憶がある。当時は、まだICの選別は若い女子従業員が頼りであった。その後、自動テスターが導入され女子従業員の姿は工場から消え始める。

本書を読んで、改めて著者の交友関係の広さを感じた。「赤紙をもらって工場へ」の記事に、専務室に呼ばれた事を書いた。当時の開発部と通路を隔てた奥の方に専務室があった。詳細は分からないが、著者とタケダ理研の社長の武田博士との交流で、著者を訪問してその談話の席に呼ばれたのであろうと思った。高周波減衰器に組み込んだリレーは多分日本ハムリン製のリードリレーだったと思う。WEB検索すると日本ハムリンの設立が1968年(株式会社日本アレフ ホームページ:http://www.nippon-aleph.co.jp/cont/grou_2.html)。

当時著者は会社の経営者、会談の相手も計測機器会社の社長で、現場の一技術者が出る場面ではなかったが、上司の開発部長が部下の悩み事に耳を傾けそれが話題に上がったという次第のようだったが、これも一つの運と言えるだろう。これが丁度、1967年頃の話ではないかと思う。日本ハムリンの設立から10後の頃のようだ。

本書の中には、昔懐かしい上司の名前が現れるが、自分の現役時代は既に雲の上の人になっている方が多かった。20世紀は半導体全盛の時代であり、半導体は業績の変動が大きい業界だが、長い目で見れば成長産業だと思いつつ現役時代を過ごしてきた。21世紀に入り、その流れに変調が生じたように見える。しかし、半導体に代わる第三の電子デバイスの有力候補は当面見えないようだ。

これから、世界にでる若者にとって、半導体がどのような役割を果たすのか興味あるところだ。ともかく、若者から携帯やスマホが無くなれば、味気ない生活となってしまうだろう。夢を描き夢を実現する手段として半導体に目を付けてもらいたいものだ。今日のIT時代を半導体が支えているのも疑いのない事実だ。日本の半導体はどこへ向かうかという一抹の不安と共に半導体よ生き残れと期待したい。

追記:
たまたま、先日「NHK  電子立国 日本の自叙伝 (上)」、相田 洋著 (1991年 日本放送出版協会)を拾い読みした。本書は、専門家でない放送人がテレビ番組として作成した内容を書物にしたもので、絵にして見せるという手法にこだわったらしい。本書に岩瀬新午の「バケツ偏析装置」が再現された時の様子が述べられている。本書出版当時は、まだ半導体開発初期に活躍した人物が健在で取材に協力している。当時の様子を知ることができる貴重な一冊だろう。日本への半導体導入という歴史を、江戸時代の西洋医学の導入という歴史に重ねて見ると、日本人は、外国に何か優れた物があれば、それに熱中するようだが、問題意識を持って、基礎から始めるのは苦手なようだ。科学や技術の世界でも鶏頭となるも牛後となるべからずという警句が通じるのではないか。トランジスタの発明以前に、真空管に代わる固体デバイスの重要性を認識して研究したたりそれを促した人物が日本にいたのだろうか。

「日本半導体歴史館。(http://www.shmj.or.jp/index.html)」
「1950年 日本初トランジスタ動作確認(電気通信研究所)。(http://www.shmj.or.jp/museum2010/exhibi340.htm)」

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追記(2020/07/05):タイトルに投稿期日を追加。本日アクセスランキング3位。再読。まだ、当時の記憶が少し残っていた。当時の人物の名前が浮かんでくる。WEB調査。懐かしい。

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