2014年2月2日(日)
昨日は晴れ。最低気温(℃) -1.3 07:31。ざっそう句:半巻きの 縮み白菜 お勝手へ。宅内閑居。部屋の整理。食卓へ上がる野菜が少ないように感じた。白菜数個を収穫。その半分が大根と交換になった。まともに巻いた白菜はわずかで、すでに無い。ともかく無いよりましだ。寒さに耐えられない部分は変色し枯れてくる。可食部はそれだけ少なくなる。
Googleでキーワード「都知事選AND(演説OR遊説)AND(渋谷OR銀座)」を画像検索(https://www.google.com/search?hl=ja&site=imghp&tbm=isch&source=hp&biw=1051&bih=434&q=%E9%83%BD%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E9%81%B8AND(%E6%BC%94%E8%AA%ACOR%E9%81%8A%E8%AA%AC)AND(%E6%B8%8B%E8%B0%B7OR%E9%8A%80%E5%BA%A7)&oq=%E9%83%BD%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E9%81%B8AND(%E6%BC%94%E8%AA%ACOR%E9%81%8A%E8%AA%AC)AND(%E6%B8%8B%E8%B0%B7OR%E9%8A%80%E5%BA%A7))。
2014年2月1日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 4.6 | NO DATA |
TMAX= | 10.6 | 最高気温(℃) 11.0 15:17 |
TMIN= | -0.6 | 最低気温(℃) -1.3 07:31 |
DIFF= | 11.2 | |
WMAX= | 2.7 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.5(西北西) 00:09 |
SUNS= | 8.1 | NO DATA |
RAIN= | 0 | NO DATA |
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読みかじりの記:原発のウソ 京都大学原子炉実験所 助教 小出裕章 著 (2011年 株式会社 扶桑社)
本書の初版は2011年6月1日である。福島原発事故以来3ヶ月も経たない時に出版された。腰巻きのサブタイトルが「危険を訴え続けて40年”不屈の研究者”が警告する原発の恐怖」とある。原発事故当時の雰囲気が伝わってくる表紙だ。
福島原発事故当時は、それこそ群盲象を撫でるという状況であった。福島原発事故に関しては膨大な情報が流れたと思う。中には情報戦、情報の撹乱・利害の誘導、更には千載一隅の金儲けのチャンスという動きもあったかと思われる。要するに疑心暗鬼と情報不足と情報過多がが同居していたのが福島原発事故直後の状況だったと思う。
その本質的な状況は今でもそれほど大きく変わっていないように思われる。福島原発事故もやがて発生してから3年目になる。原発事故現場は直接観察できない。当局は、原発が直接見えないという特徴を逆手にとって分かっている事も隠蔽しているようにも見える。要するに、当局は事実を隠さなければ、利権も責任も隠蔽できないのだ。
本書は、情報が錯綜している時期に専門家として、一般人の不安・疑問に答えると共に日本の選択としては脱原発しかないと述べていると思われる。その趣旨は「読みかじりの記:高速増殖炉 もんじゅ 巨大核技術の夢と現実 小林圭二 著 (1994年 七つ森書館)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/01/1994-5dc0.html)。(2014年1月23日(木) )」と共通する視点であると感じる。
「高速増殖炉 もんじゅ 巨大核技術の夢と現実」はかなり技術的な内容に踏み込んでいるが、本書はもう少し通俗的な内容になっている。「第一章 福島原第一原発はこれからどうなるか。」当時は、これがもっとも知りたい事であったろう。当時、事故で破壊した原子炉からの放射性物質の拡散を防止するため、石棺と水棺の議論があったと思う。当時、格納容器の健全性は保たれているという当局の見解がもっともらしく流れていた。本書では、格納容器から汚染水がジャジャ漏れになっている以上、水棺にも疑義があると述べている。また、閉ループ方式で放射能汚染水の流出を低減する方式も述べている。振り返ってみると、原発の冷却も汚染水の対策も本質的な前進は少なく、依然綱渡りが続いているのが分かる。
「第二章 「放射能」とはどういうものか。」「第三章 放射能汚染から身を守るには。」「第四章 原発の”常識”は非常識。」「第五章 原子力は”未来のエネルギー”か?。」「第六章 地震列島・日本に原発を建ててはいけない。」「第七章 原子力に未来はない。」各章のタイトルを並べたが、本書タイトル「原発のウソ」と並べると「原発のウソ」が当時の雰囲気を伝えようとしているように感じるが、現在ではややセンセーショナル過ぎるような印象を受ける。原発はあくまで人造物件であり、「ウソ」は人間の行為だ。「原発のウソ」で何を訴えたいか何を目的にしたのか。言葉はまかり間違うとすれ違いや誤解生じる心配もあると思う。
「××のウソ」という表現は週刊誌的・通俗的表現だが、問題が問題だ。やはり敵を攻めるにはそれなりの工夫が必要ではないか。そうして敵は原発・原子力なのか。原発事故直後、当局は電力利用者に無差別の計画停電という前代未聞の暴挙をしかけた。本書第七章には、原発が止まっても電力は確保できるだけの能力はあったと述べている。これこそ、当局のウソではなかったか。
豊かな生活には豊かなで安いエネルギーが必要だという宣伝も全部ウソではないだろう。しかし、火力より原子力の方が安くてクリーンだと言われると庶民はそれがウソか本当か判別し難く感じる。原発同様、一度動き出した巨大システムを停止・解体する事は大変だ。ともかく、国家も社会も「カネ本位」主義で突っ走って来たわけだが、何時の間にか多様な価値観を失ってしまったのが現代ではないか。
WIKIPEDIA「国民総幸福量。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B7%8F%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E9%87%8F)」。
WIKIPEDIA「ブータン。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3)」。
本書は「原発のウソ」というタイトルの別案(「××のウソ!」etc)を考えつつ読むとなお一層興味を覚えるのではないか。
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