2015年2月17日(火)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 13.0 15:07。最低気温(℃) 0.1 06:09。ざっそう句;安物を 買って気になる カゴの中。用事外出。勘違いで空振り。出かけたついでに買い物等。大風で空気が洗われたように感じるほどきれいに遠方の山々が見えた。赤城山がよく見える場所で停車してデジカメ撮影。田園地帯に来て二度目の撮影をしたらシャッターが降りない。デジカメの動作は一種のOSに従って制御されているようだ。そのOSが寒さのため暴走したのではないかと疑った。デジカメ撮影も不首尾で何となく憂鬱になる。帰宅して、自働蒔きダイコンと白菜を収穫。かみさんは落果したナツミカンを拾ってきた。マーマレードを作ると言うがいつになるか。ミカンは鳥の餌になり樹上には皮がぶら下がっているだけだ。ハッサク、ナツミカンはまだ食べられる。そろそろ杉花粉が飛散開始する季節だ。今年は、ユズジャムをお湯に溶いてユズジャム茶で対策する積もりだ。
2015年2月16日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 5.9 | NO DATA |
TMAX= | 12.7 | 最高気温(℃) 13.0 15:07 |
TMIN= | 0.3 | 最低気温(℃) 0.1 06:09 |
DIFF= | 12.4 | |
WMAX= | 7.6 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 13.9(西北西) 01:06 |
SUNS= | 9.3 | NO DATA |
RAIN= | 0 |
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ハトよ 鳴いておくれ:八幡沼(川端宇兵衛)開削150周年と八坂用水(小畠武堯)
昨年、八幡沼は開削150周年を迎えた。「ハトよ 鳴いておくれ:愛しき古里:伊勢崎 八幡沼開削150年記念碑が発する古老達のメッセージ(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/12/150-1aaa.html)。(2013年12月27日 (金))」
当BLOGでも、八幡沼とその開削指導者の川端宇兵衛について関連記事を掲載している。一方、八坂用水は伊勢崎城の用水としても活用されたのではないかとの視点で、最近Go!伊勢崎の掲示板で議論が行われている。八坂大樋の遺構はあるのかと興味は尽きない。今から150~300年も前に、用水や沼を開削するのは気の遠くなるような大事業であるが、先人達はそれを立派に成し遂げている。
川端宇兵衛は、丁度、国定忠治と同じ時代を生きた人物で、時代背景を理解するのに役立つだろう。また、八幡沼開削の指導者川端宇兵衛は民間人、八坂用水開削の命を受けた小畠武堯は藩のお役人とその立場の違いも興味ある問題だろう。
キーワード「八幡沼」でGoogleサイト内検索(https://www.google.co.jp/webhp?tab=ww#q=%E5%85%AB%E5%B9%A1%E6%B2%BC%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2F)。
たまたま、農事や水利の役員になって、八幡沼開削の歴史等を知るようになった。終戦直後は、農家に生まれれば、農業に従事する場合がほとんどだった。その後は、農業収入だけで生活するのが困難な時代になり、勤め仕事が主で、農業が従という兼業農家が増えた。
それと歩調を合わせるように、大正用水が十分機能するようにったり、稲作の機械化も進んだりして、昔の農家が味わった苦労も過去のものになりつつあった。昔の農家の労力は、人間と牛馬程度で、牛馬は人間が扱ったのだから、農民は牛馬以上に働いたのかもしれない。
父の世代では、稲作をしても、小さな水争いは絶えなかったようだ。我田引水も必要悪に近かったのではないか。水が十分にあれば、水争いは起こらない。田圃の水見程度の仕事はした事があるので、当時の水争いの話も過去のものではなかった筈だ。
八幡沼開削の歴史を知ると、隣近所の農民が水争いをしたのに、どうして、金や労力を出し合って協力し合ったのか不思議に思う。旱魃で、どの田圃にも水が回らないという、絶対的な水不足が農民達の団結力になったのかも知れない。ともかく、小競り合いは、幾分かの余裕があって起こるものかもしれない。
八幡沼の開削に関しては、相当記録が残っているようだ。聞いた話では、その記録を伝えた家には、大切な記録だから火事の時は、第一にそれを持ち出せという家訓があったそうだ。郷土史家がその記録を捜しに出向くと、当主は昔あった火事で燃えたと話したとか。偶然にも、その記録は再発見されたが、生々しい焦げ後が残っていたという話も聞いた。
残念ながら、八幡沼の開削の技術的な資料や内容はほとんど分からないとの事だ。地域郷土史家の調査によると、四国宇和島の黒鍬集団が関与した可能性もありそうだが、まだはっきりしていないようだ。ただ、測量するために、夜間に線香の光を使ったという言い伝えもあるとか。このような話は、八坂用水の場合も言われているようで、八坂用水の工事が相当先行するが、八幡沼開削と関係している可能性もある。
八坂用水は、桃の木川から取水し、途中神沢川と交差するが、神沢川を木製の大きな樋で渡す当時としては難工事が成功した事により、宝永3年(1706)の完成から、今日まで300年以上の長い期間使われている。たまたま、粕川から八坂大樋まで辿った事があった。途中に、幾つか記念碑があった。現在では、三面コンクリートの水路橋が神沢川の上を横断している。写真は2009年に撮影した八坂用水の水路橋と記念碑と八幡沼の画像を合成したものである。
写真当時の国土地理院の地図では、八幡沼が荒れ地の表示になっていたのでがっかりした。とりあえず、沼である旨メールを入れて修正をお願いした。地図全体の見直しをする時修正すると連絡を受けた記憶がある。その後、直っているかなと何度か確認したが直っていなかった。今回確認してようやく修正されているのが分かった。おまけに、弁天島まで記載されている。実はこの弁天島は古墳であると講演会の時に発言した人がいた。小さな丸にしか見えないが、八幡沼を開削した当時の姿がここに記憶されていると考えると感慨深いものがある。国土地理院に感謝したい。
八幡沼の開削では、粕川の水の引き方が、最難問であったようだ。用水路を開削する場合、当然だが、水が流れるように勾配を確保する事が最も重要になる。高低差が多くあるある地形では、測量と工事がうまく整合しないと失敗してしまう。その歴史的な例が女堀であったとも言えよう。
大正用水史によれば、その構想を伏島近蔵も持っていたとの事だ。伏島近蔵は横浜に出て商人として成功するが、その後横浜の水利・水運事業で横浜へ大きく貢献している。大正用水は、赤城南面を等高線に沿うように西から東に流れ、その勾配が相当緩やかなようだ。その方が、灌漑面積が広くなるのだが、あまり緩すぎれば女堀と同じになってしまう。
WIKIPEDIA「伏島近蔵。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E5%B3%B6%E8%BF%91%E8%94%B5)」
「八幡沼開鑿と川端宇兵衛翁(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/11/post-d6f7.html)。(2008年11月25日 (火))」に八幡沼の碑について書いた。
八幡沼へは、粕川から水を引いているが、やはり、高低差を克服するために、水路の障害となる山の下に隧道を掘る工事をしている。八坂大樋に対応する部分がこの隧道になると思われる。この隧道を調査した人の話では、鍬の跡などがまだ当時のまま残っていたとの事だ。ともかく、このような歴史も忘れられてしまう可能性もある。
「06B_川端宇兵衛 生誕200年記念講演(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/wp06b.html)。」に、当時の資料を掲載している。
尚、キーワード「「ため池百選」」でGoogleサイト内検索(https://www.google.co.jp/webhp?tab=ww#q=%E3%81%9F%E3%82%81%E6%B1%A0%E7%99%BE%E9%81%B8%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2F)。で八幡沼の価値が理解できると思う。
松食い虫対策で松の大木が伐採され、国道462号線の拡幅工事が2014年に完成したりで、八幡沼周辺は大きな変貌を遂げた。また、2011年東日本大震災の直後に北関東道が全線開通した。北関東道誘致に尽くした多くの先人達も今では鬼籍に入っている。時と共に記憶は薄れてしまう。冒頭の記事に関して、上毛新聞の記事と八幡沼開削150年記念碑の碑文の画像を以下に掲載しておく。