2015年4月17日(金)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 23.2 13:36。最低気温(℃) 5.5 05:44。ざっそう句;助っ人に 振り回されて 草むしり。ようやく野良仕事に適した天気になった。通路に生えているタマスダレを掘り上げて、目立つ場所に移植。前触れも無くお手伝いがやってきた。キャベツ区画の除草をして貰った。普段農作業をしていないのでそのコツを教えるのが大変だ。ともかく昼前から夕方頃まで頑張ってもらった。自分は雑菜を除去し次の作業の準備。ジャガイモ区画の除草。ジャガイモの生育状況はかなりバラツキが大きい。早い物では軸が伸びて大きな葉になっているが、遅い物はまだ小さな芽が出た程度。初期成長の時に除草をしないと、草に負けてしまう。草に勝てる頃になったら手抜きをしたい所だ。カナムグラが多数発芽して育ち始めている。今年は、カナムグラの被害を受けないよう小まめに駆除をしよう。
2015年4月16日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 14.8 | NO DATA |
TMAX= | 22 | 最高気温(℃) 23.2 13:36 |
TMIN= | 6.3 | 最低気温(℃) 5.5 05:44 |
DIFF= | 15.7 | |
WMAX= | 3 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.9(南東) 12:02 |
SUNS= | 8.2 | NO DATA |
RAIN= | 0 |
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ツルよ 飛んでおくれ:前橋最善寺にある松野自得の句碑
以前、前橋の大室公園であるイベントがあった。ついでだから、勧昌寺があれば見ようと途中にある寺を訪問した。実は、「国定忠治を男にした女侠 菊地徳の一生」(高橋敏 著)に、菊地徳の旧居が勧昌寺へ移築されていると書かれていたので、運が良ければ見られるかもしれないと思ったのだ。
「国定忠治生誕200年(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/10/post-a263.html)。(2008年10月18日 (土))」
勧昌寺の場所を調べた訳でも無く、お寺を探して境内を回っただけで、その寺の名前も忘れてしまった。最近、リフレシュのため古いデジカメ画像を眺めていて、「御仏は大地におわす八重桜 自得」と書かれている大きな句碑の画像を見付けた。この句は、新聞や郷土史の冊子でも出会った。調べて見て、ようやく松野自得が最善寺の住職で画家・俳人であると知り、なんとなく全体が見えてきた。立ち寄ったのは、勧昌寺ではなく最善寺だったようだ。
最善寺の境内には、俳句を刻んだ石の観音像がいくつもありその画像も残っているが、スケールから言えば、御仏は~の句碑は大きさや表現力の点で、他の観音像を圧倒しているように見える。
Googleでキーワード「松野自得」を検索(https://www.google.co.jp/webhp?tab=ww#q=%E6%9D%BE%E9%87%8E%E8%87%AA%E5%BE%97%E3%80%80&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2)。
さて、「御仏は 大地におわす 八重桜」という句を読む人はこの句からどんなメッセージやイメージを受け取るのだろう。ヒマに任せて、電子辞書の歳時記を読む事があるが、高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体:高濱 ?子、1874年(明治7年)2月22日 - 1959年(昭和34年)4月8日)の例句が多い。この句は、虚子の句とちょっと視点や表現が異なるように感じた。やはり、寺の住職をどこかで意識しているのか。
WIKIPEDIA「高浜 虚子(明治23年(1890年)~昭和50年(1975年))。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B5%9C%E8%99%9A%E5%AD%90)」
松野自得(明治23年(1890年)~昭和50年(1975年))は、WEB情報によれば、「ホトトギス所属後、昭和3年に俳句雑誌『さいかち』を創刊し、その主幹となる。「古趣創生」を標榜。句集『自得俳句集』『第二自得俳句集』追悼句集『虹の座』。他に『自得随筆集』あり。代表句「風吹けば風から生れ赤とんぼ」」との事だ。
この句碑を見ていると、松野自得の集大成のように感じてくる。その句碑の裏側には古木がそびえているように見える。今度は、この古木も見たくなった。何とこの句碑は、大きな石を画布のように自由に使い切っている。さすがに画家だ。それよりも、周囲の風景や見えない心の風景までこの句に描き切っているようにも感じるのだ。
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追記(2018/06/13):ランキング6位に入り再読。タイトルに記事の日付を追加。古い記事は検索で読まれるようだ。自分も検索しなければこの記事にたどり着けない。調べると、ブログ記事 3732 • ウェブページ 136 とあった。この記事を書いたのも国定忠治がその発端にあったようだ。菊地徳の旧居は現在の五目牛町にあった。
「勧昌寺について」(同寺ホームページへのリンク)
Googleにてキーワード「国定忠次OR国定忠治」で本サイト内を検索
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