ハトよ 鳴いておくれ:善応寺にある女医のさきがけ髙川磯?の墓を見る;花吹雪 犬引く美女の 乱れ足。1604。

2016年4月9日(土)
昨日は晴れ。ざっそう句;花吹雪 犬引く美女の 乱れ足。用事外出。行き先の勝手が分からず困る。用事が済んで次の順番待ち。ついでに、スーパー、書店、百均店、コンビニプリント。桜は満開を過ぎて、はらはらと散っている。桜の散り際の良さはどれほど愛でるべきか。庭先の赤いチューリップが咲きそろい、背丈が伸びている。山菜のコゴミを賞味した。春本番だ。

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ハトよ 鳴いておくれ:善応寺にある女医のさきがけ髙川磯?の墓を見る

善應寺で見た、国定忠治と小畠武堯の墓は、寺の案内板に紹介されており、そのつもりで、デジカメ撮影した。同寺の、ホームページで紹介している、髙川磯の墓が、あったとは確信が持てなかった。だが、墓石を見た時、特徴がありそうな墓碑なので、一部撮影した。その時、目に入った文字が「婦人」という文字だった。

改めて同寺の、ホームページから、年代を引用すると、髙川磯(1784~1861年)、村上随憲(1798~1865年)である。髙川磯が死亡したのが丁度文久元年で、この頃から八幡沼の開削が始まっているので、地域の歴史イベントを比較する参考になるだろう。

同寺のホームページによると、「高川磯は伊勢崎における女医のさきがけともいわれる女性。一旦は他家へ嫁して一男一女をもうけたが、夫に先立たれたため、娘のみを連れて実家へと戻る。家督を継ぐ人間がいなかったため、蘭方医・村上随憲(後述)を娘の婿として迎えた。磯は晩年になって医学を修め、特に産術によって千人以上の命を救ったといわれている。文久元年(1861)に78歳で死去。」とある。

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今回、墓碑から、文字を拾って見たが、おおむね、このホームページに記載されているような内容が書かれているように感じた。墓碑のタイトルは、何とか「髙川氏婦人墓」?と読めそうだ。墓石の四面に文字が記されていると、その一面は抜かしていたのかも知れない。「~嬰病以其」に続きの部分がありそうだ。「文久三年癸亥某月 嗣子 廣籌謹建」とあり、この人物が村上随憲なのだろうか。実は、「痘」と読んだ部分の、文字の彫り具合が、鮮明で無く、確信が持てない。「不能救者殆千餘人」という部分をどう解釈するかという点も興味がある。同寺のホームページでは、「磯は晩年になって医学を修め、特に産術によって千人以上の命を救ったといわれている。」とある。

髙川磯と村上随憲の年譜を比較してみると、村上随憲は、髙川磯より14才若い。村上随憲が死亡する4年前に髙川磯が亡くなっている。当時の、家制度の中で、他家に嫁して一男一女を設けた髙川磯が、嫁ぎ先の戸主の死亡に伴い、一男は嫁ぎ先に残し、娘を実家に連れ戻り、その娘に村上随憲とう婿を取らせ、家を建て直し、その上、晩年になって女医の魁として、産術等で地域の人々の命を救ったとなれば、そのような事績は大切に伝えて行くべきだろう。

改めて、「不能救者殆千餘人」を考えると、「救う能わざる者殆ど千餘人」と読むべきなのか。子供の出生は、ほぼランダムに生じると考えても、大過ないだろうが、天然痘という流行病は、一人や二人の医師で治療できるより、大規模に流行するだろう。従って、碑文が語っている事ことから、地域の医療事情が分かる可能性もあるだろう。この墓碑で、天然痘の事がどれほど分かるか興味がある。

実は、髙川磯の生きた時代に作られた、馬頭観世音の石碑や庚申塔が地域に残っており、これらの石造物は疫病除けで作られた可能性もある。医術の発展は、一般的には余り興味を引かないようだが、合理的精神の発展を理解する必要性は欠かせない。

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2016年04月08日 伊勢崎(イセサキ)
TAVE= 17.2 毎正時のアメダス観測値(気温)の平均値
TMAX= 22.4 毎正時のアメダス観測値(気温)の最大値
TMIN= 11.3 毎正時のアメダス観測値(気温)の最小値
DIFF= 11.1 毎正時のアメダス観測値(気温)の最大値と最小値の差
WMAX= 6.5 毎正時のアメダス観測値(風速)の最大値
SUNS= 4.8 毎正時のアメダス観測値(日射)の合計値
RAIN= 0 毎正時のアメダス観測値(雨量)の合計値
1日の極値 データ 時刻
最低気温(℃) 11.3 0:00
最高気温(℃) 22.8 12:42
出典=気象庁 参照⇒ AMEDASへのリンク
最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.9(北西) 2:25


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