2009/1/1
肥やし場のツル
有り難や生老病死すべてみてなお定まらぬ輪廻の行方
新年を迎えた。日々これ新たなりという言葉がある。同じ事は二度と起こらないという意味で
もあろう。しかし、日々新しい気持ちで行動せよという戒めでもあろう。日々健康で、飯がうま
く、何事もなく、平凡に過ごせれば何よりだ。願わくば、その平凡のなかに小さくともきらりと輝
くものを見つけられれば至福の至りであろう。凡人は小さな事を積み上げる以外にない。
輝かしく縁起の良い鶴が、ゴミ捨て場に降り立てばその落差の大きさで鶴の存在も殊更目立
つであろう。二十世紀梨の誕生にもそのようなたとえ話があるようだ。1888年(明治21年)
に、千葉県松戸市に住む13歳の中学生であった松戸覚之助が親類石井佐平宅の裏庭の
ゴミ捨て場に生えていた小さな梨の木を偶然発見して、それを父が経営する梨園「錦果園」
に移植して育ててたところ、10年目に結実したそうである。ところが、その果実は従来の梨
に無い、食味と食感を持っていた。鶴の誕生である。ゴミとして捨てられた梨の種が発芽し、
それが発見され、実が生るまで育てられたという一連の縁が鶴の誕生に必要であった事に
疑いはない。種子そのものが突然変異で素晴らしい性質を持っていても、実が生るまで育て
てみないとその性質は実証されないわけである。叔父さんに聞いた幼少時の話である。姉が
ウリ畑で、非常においしいウリの株を見つけて、誰にも教えないで、そのウリだけを食べてい
た。どうも様子がおかしいので、白状させたらば、お前だけに教えるといって、ここのウリが
うんとうまいと教えてくれたとのことである。今思うと、あれは突然変異のおいしいウリの新品
種であったかもしれない。種を採っておけば良かったと残念がっていた。良い性質を持った
種を発見し、それを育て、世に出すのは長い期間がかかる。これは、野菜、果樹、牛馬、人
間等全てに通じることである。誰にも肥やし場のツルを発見するチャンスはあるだろう。しか
し、発見しようとする意識とそれを育てようという意欲がなければ何事も起こらないだろう。今
年は肥やし場に生えてきたカボチャに負けぬ程度のカボチャでも作ってやろう。自然体で行
こうと思う。