2009/9/13
戒名と院号
葬儀の時に気になる事だ。しかし、その意味を生活の中で考える事は少ないのではないか。
それを授かるのは故人であるので戒名と院号も生存者は余り実感が伴わないのであろう。
会社で壁につき当たった時に実用書を読むとともかく相手や場所や時を変えろというアドバ
イスがあった。確かに、自分が束縛されていた条件から飛び出すと何にとらわれていたか客
観的に見える場合がある。駄目な上司が最早打つ手無しで相手に出来なくなった場合はそ
の上司の上司がいるではないか。名前を変えるのも同じ様な意味合いがあるようだ。新しく
名前を変え、または名前を貰って再出発すれば良いではないか。自分自身は唯一で変えら
れない。しかし、名前は幾つも持てる。意識を変えれば良いのだ。生前、自分の名前が気に
入らないので名前を変える人もいるようだ。そんなに勝手に変えさせてくれない。衆人から本
名が忘れられるくらいまで自分の希望する名前で通すのだ。そうすれば社会生活上、その人
の名前がその名前であると定着する。実名を本当に変えるのは公的な手続きが必要になる
ようだが、名前を変えるべく生前に努力すればそれがかなうのも事実だ。戒名と院号も自然
に付いてくるかもしれない。ともかく、芸事や修業事で名前を貰う事や自分がハンドルネーム
や筆名を名乗るのも実名以外の活動を想定するためであろう。即ち意識の仕切直ししている
様に思われる。実名で全ての事ができればそれ以上の名前は必要でないように思われる。
しかし、生死を分かつ時、ここでも価値の仕切直しが行われる。戒名と院号もそれをいかに
理解するのかいかに生かすかでその意味が変わるのであろう。