心象の足跡:残照雑記:老人の寝言:体育の授業(改題):鬼の大松の『なせば成る』と抗命の佐藤幸徳中将;嗚呼日本 逃げて隠れて する悪事。171028。=再編集記事へのリンク
追記(2018/01/17):タイトルに日付を追加
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2010年1月 7日 (木)
20010/1/7
体育の授業
自分が受けた公的集団教育は幼稚園から大学までであった。体育には実技と理論があった
と思うがどちらも生半可で過ごしたような記憶しかない。幼稚園の遊戯なども体育の一部と見
なせるであろう。とくに教科らしき物はないのが何よりだ。ところが、大学でも体育の授業があ
ってびっくりした。体育の授業で記憶に残っているのは、身体は適度に鍛えればその機能は
向上するが過度に鍛えれば故障の原因になるというようなことのみである。逆に鍛えなけれ
ば、機能は衰える。これが、トレーニングの原則かもしれない。しかし、その後科学的に解明
されてきた理論も多いのではないかと思う。スポーツで合理的に最高の体力・能力を発揮す
るためのスポーツ科学等は最近相当進歩しているのではないかとと思う。日本の女子バレー
が強かったのはもう数十年前の事だった。あの、鬼の大松と呼ばれた大松監督の『おれにつ
いてこい!』『なせば成る』という言葉が流行った。自分には当時、これが過度な精神主義と写
った。しかし、WIKIPEDIAの大松博文の項を見ると「昭和16年(1941年)に陸軍に召集され、
中国・ビルマ・ラバウルを転戦する。中隊指揮官を務めた際、自分より年配の兵士が指揮に
従ってくれるよう、自ら率先して行動をとった。その後第31師団下に配属され、インパール作
戦に従軍。「白骨街道」とも呼ばれる悲惨な戦場からの数少ない生還者の一人でもある。こ
れら経験が、彼の性格を大きく変える出来事となった。」とあった。今日、インパール作戦の
事を知る人も少ない。インパール作戦で軍法会議で極刑を覚悟の上、陸軍で初めて軍の命
令に背いて、部隊を退却させ、部下の兵士が白骨になるのを阻止したのが佐藤幸徳中将。
父はノモンハン事件の時佐藤幸徳少将の部下であり、戦後にも軍隊生活を語ることの少な
かった父であったが、佐藤幸徳という人は立派な方だったと言うのを良く聞いた。ところが、
WIKIPEDIAの佐藤幸徳の項に、「1944年のインパール作戦では、第31師団長(「烈」)として
参加する。」とあった。そうであれば、大松監督は中隊長として、師団長佐藤幸徳を知るべき
立場にあった筈である。旧日本陸軍では主な編制単位に「総軍」、「方面軍」、「軍」、「師
団」、「旅団」、「連隊」、「大隊」、「中隊」、「小隊」、「分隊」があったとの事であり、組織から見
れば、部下でもあり部下を持つ身でもあった。数少ないインパール作戦の戦場からの生還者
であったと言うと佐藤幸徳の抗命も大松監督生還の一因であったかも知れない。戦場で部下
を動かす事は大変であろう。部下は上官の全てを冷静に見守って自分の行動を決める事で
あろう。『おれについてこい!』『なせば成る』という言葉を凡人が吐いても響かない。思うに、各
界のリーダーも自分の利害得失に執着せずに捨て身の覚悟で『おれについてこい!』『なせば
成る』と率先垂範すればその集団も活力を持って生き返るのではないか。最後の勝敗と生死
を決めるのに精神力も不可欠であるに違いない。ともかく、実際のスポーツ、教育や人生等
の場面では見える体力はもてはやされるが、見えない胆力には関心が集まらない。