2010/4/28
戦後の共同風呂(2)
2009/5/14の記事に戦後の共同風呂について書いた。それから約一年の間にその風呂に関
する話をいくつか耳にした。日常の会話でわざわざ戦後の共同風呂を話題にする事もない。
話した人の脳裏に残っている事が半世紀以上も後になって会話の中にぽつりと出てくるの
だ。それを聞き流すと一つの記憶が消えて行くような切ない感じがする。自分が接ぎ木したミ
カンの苗を近所の家に植えに行った。お茶を頂いて色々話をする内に戦後の共同風呂に話
が及んだ。風呂を沸かすのに鈎型に折り曲げた二本の電線を引っかけて繋いだので怖かっ
たという話であった。この話により電力を使用した電気風呂である事が分かった。ではなぜ、
そんな怖い方法だったのか。既に話は別の方へ向かっていたので詳しくは分からない。電気
料を節約する為の盗電であったのだろうか。しかし、電気の使用契約も色々あったと思う。使
う器具とその台数から決める固定電気料と使った電力料に応じて支払う従量電気料というの
が基本の二方式であろう。敗戦直後で電力計も十分供給されていなかった可能性もある。共
同風呂という事で利用時間も限定されている。ひょっとすると共同風呂の契約は固定料金で
あった可能性もある。それならば、何故電線を引っかけて通電したのか。きっと、配電盤やス
イッチ箱も資材不足で無かったのではという推測も可能だ。風呂を沸かす担当者は電気料を
節約する事と早とちりしたのかもしれない。要は戦後の共同風呂が地域の衛生・健康維持と
労力の節約に大きく貢献した事である。電力事情の良くない時代にそれを実現した先人達の
努力も忘れてはならない。その結果として仕事に専念でき生産した農産物も食糧不足を解消
するという社会貢献に役立っているのである。最近、市議選挙の応援に来た長老もこの共同
風呂について言及した。まだ、多くの人の記憶の中に共同風呂の事が残っている。当地域は
他地域では出来なかった共同風呂という先進的な事業をやったと振り返った。そうして若手
の人々がニシンを使ったおかずの炊き出しを休日にやった例も話した。各家庭はおかずつく
りもじゅうぶんではなかったので、ありがたかったようだ。当時はニシンも豊漁であった。蛋白
源の補給には最適であったろう。困った時は老いも若きも共同して助け合ったという終戦直
後の話を聞くことができた。こういう体験を共有することにより地域の底力が生まれてくるの
であろう。