2010/4/6
たたかひの矢の根
四百五十号私物とかかれ「許」の印あり妻が差し入れし古事記に萬葉集に(斎藤瀏)
北蝦夷(きたえぞ)の古きアイヌのたたかひの矢の根など愛す少年なり(斎藤史)
昭和萬葉集3巻。二・二六事件 処刑の区分にあった短歌である。自分にとって作者の斎藤
瀏が軍人である事も歌人である事も昭和萬葉集3巻を開くまで全く知らなかった。その最終
段に斎藤史の歌がやや多く掲載されている。その最後の一首にひかれた。下欄に記された
解説を読むと「詞書」があり、斎藤史の父と父の友との関係が記されていた。斎藤史の幼き
頃の友が二・二六事件で処刑された事を詠んだ歌だろうと思った。しかし、インターネットを検
索してみると斎藤瀏が斎藤史の父であったと知り、歌の配列に改めて感心した。たたかひの
矢の根とは矢尻等の石器の事なのだろう。自分はこれらの石器は主に狩猟用に使われたの
だと思っていた。その狙う向きを変えれば武器になる。その古代アイヌの矢尻等の石器を愛
した少年は、何故にそれを愛したのだろうか。軍人になる事を夢見ていたのだろうか。二・二
六事件の項にある歌を読むとそのスペクトルの広さを改めて感じる。明治維新は一種の革
命の様でもであった。昭和維新は二・二六事件がさきがけとなった敗戦により実現したのだ
ろうか。自分の脳内では歌人と軍人が文武の人としてうまく結びかない。平和な時代ならば、
武より文に傾くのが世の常なのだろうか。後者の歌は昭和15年に発表されたようだ。その頃
自分の父は20才代で、応召してノモンハンで軍隊生活をしていた筈だ。病弱な親と家族を残
して。石器に関しては考古学者の相沢忠洋を先ず思い出す。アイヌのたたかひの矢の根な
ど愛す少年はそれを武器として見ていたのか。それとも、太古の争乱のない狩猟時代の頃を
夢見ていたのか。などとそえられた言葉に言外の物事が暗示されているが、それは想像で
感じ取る以外にない。アイヌ人も文明とともに北へ北へと追いやられていった。平和な時代で
あれば古きアイヌのたたかひの矢の根など愛す少年の人生も変わっていたのであろうか。
書き置きの最後の「平和な時代であれば~」の文の末尾に「か」を追加した。文も表現として
時々に揺れているようだ。同様に歌もその時々の作者の心情を切り取って固定してしまう。と
もかく「古きアイヌのたたかひの」とリズム良く流れるが、「たたかひの」というただ一つの言葉
に何とも言い難い心情を感じている。自分としてはこの一首を何度も読み、その五文字が「つ
かひたる」とか「つくりたる」という言葉であってくれればとそこはかとなく思った。しかし、それ
では幼き頃からの友の挽歌にはならない。歴史や時間の歯車は決して戻らない。それだから
こそ、古代に対するロマンを抱く事が可能になるのか。