習わぬ経:いとしきもの

2010/7/3

アナログいろはカルタ:習わぬ経

な:

■ 習わぬ経は読めぬでは済まぬ

最先端の開発は正に事例無し、師無し、教科書無し。時に「清水の舞台から飛び降りる覚

悟」も必要。 いろはカルタに○泣く面を蜂がさす○ 習わぬ経は読めぬ ○なす時の閻魔顔

等があるようだ。般若心経という経がある。日本にはかなり古い時代の梵字の般若心経が

伝わっているらしい。しかし、ともかく漢訳されたものを棒読みしているのが実状のようだ。あ

るとき、絵文字般若心経というのに出合った。マカハラミッタシンギョウ云々のマカに釜を伏

せた絵をあてていた。釜を逆さにしたのだからマカと読ませる。ハラには腹の絵をあててい

た。これほど努力して経を読もうとする姿には驚いた。般若心経の本も色々出ているが著者

各人各様の解釈。新しいことを始めるにも無から始めることはできない。何らかの手がかり

が必要だ。蘭学事始めは当時の医学書解読の熱気を伝えている。技術者は経を読むだけ

ではなくOUTPUTが要求される。仏教の経はお釈迦様の講義の講義録のようなものらしい。

というより、講師と弟子の問答集に近いのか。従ってその講義録を最もらしく読むよりは、講

義を直接聞くべきなのだろう。いや、むしろ先生に質問を投げかけるところに本質的な面白さ

があるようだ。門前の小僧として先生の講義を聞くのが学問の出発点になるのかもしれな

い。経はともかく教科書は時々読んで損はしない。ともかく眼前の難問も必死に食らいついて

ゆけば不思議と解決する事が多い。あきらめたらそこで全てが終わる。経も教科書も物事の

入り口という共通した役割があるようだ。