2010/9/7
雑木歌録:スイカ
■仏前に初生りスイカもらいたり
昭和30年代だろうか。父親がスイカを作った頃の事を思い出した。当時はハウスもポットもなかった。スイカは畑に直播きしていた。種を播いた地面に竹ひごを数本挿して、その上にパラフィン紙をかけて、その回りに土を盛って風に飛ばされないよう固定した一種の簡易フレームのようにして育苗していた。苗が大きくなる頃には気温も上がるので、パラフィン紙を破って、その後はフレームが不要になるので撤去する。ともかく、少しでも早く収穫するための工夫だったようだ。地面には麦藁をしきつめた。
夏が終わる頃にはスイカの株も衰えて葉が無くなるので、程度の良くないスイカがあちこちに残っているのがすぐに分かる。その中から食べられそうなのを選んで収穫したのを覚えてる。スイカを食べられるのはこれが最後と思ったのか、この最後の頃のスイカの印象が強く記憶に残っている。スイカ割りをして遊んだのも二級品か三級品であった。ついでに、スイカ提灯を作って遊んだことも書き残しておこう。
それ以来、スイカもほとんど作らない。仏様が頂く初生りのスイカはそれなりに貴重である。そのスイカには色々な記憶が残っているように感じるのである。スイカを持ってきてくれた人もそのスイカを通して何かを語っているように感じる。
追記:当時は冷蔵庫は無いので、井戸水に浸して冷やした。スイカ畑の広さもわずかに記憶が残っているが、その広さから考えると収穫したスイカの大半は市場に出したようだ。当時は運搬用にはリヤカー程度しかなかった。市場まで数㎞はあった筈だ。リヤカーだけで運んだのか、リヤカーを自転車で牽引したのかはっきりしない。自分も刈った麦の束をリヤカーに積んで畑から家まで自転車で牽引した事を覚えている。当時は道路の舗装も不十分で、数㎞の砂利道を運ぶのは大変だったと思う。その後はテイラーが入った。耕耘機と運搬機の両用で、運搬の時は荷台に付け替えた。時間はかかったが、これで隣市の前橋の市場まで出荷のためよく往復したものだと近所の人から父の話を聞いた事がある。こういう昔話もいつも聞けるものではない。生産者仲間で俺もお前さんのおやじと同じ様な苦労をしてきたという回顧談でもある。お互いに立ち話をする雰囲気とちょっとした時間のゆとりが無いと用事だけで終わることが多いのだ。残念な事に、この話をしてくれた人も先日亡くなった。ご冥福を祈る。長老の昔話は聞けるときに聞いておくべきで、聞く心がけも大切だと思うが思うようにならない。