2010/9/6
雑草句録:ボケ
■忍び寄るボケと戦うこの一瞬
大抵の人は自分の老後の事をイメージするであろう。最近は百才以上の高齢者の尋常ではない事態がニュースになっている。なぜ、と問い直すと不可解な事が沢山ある。個人の歳相応のボケは余り嘆くべきではないのではないかと思ったりする。逆に一刻も早くぼけて欲しい人もいなくはない。本当のぼけなのかうそのぼけなのか。ところで、ボケとトボケルというコトバにどんな関連があるのか。金も権力もなければどうでも良いことだが...。~とボケルと言う如く善人がボケに対して許す感情を逆手にとって尻隠しをする事がとぼけるの意味なのか。
追記:数年前、この作品ができた具体的な背景は思い出せない。日々精一杯生きて行く事がボケ防止の最高の薬かもしれない。人間の老化は生まれたときから始まっていると聞いたことがある。かなり多くの脳細胞も日々死滅しているようだ。これも、使わない脳細胞が余り多すぎると、劣化により配線がショートしたりして脳が誤動作したりする事を防止するためであるという説に出合ったことがあった。脳細胞は必要以上に多くある。生きている間に必要なだけ残っていればよい。そうであれば大飯食い(脳の消費カロリーが大)の不要な脳細胞の切り捨ても人体の省エネと考えれば合理的だ。ヒトも受精から死亡の間に、進化の中で辿ってきた事を繰り返しているようだ。両棲類のように指の間に膜が付いている時期もあるらしい。その膜の細胞も切り捨ててほ乳類の指になるという。人類の歴史の中でボケが問題になったのは極々最近の事かも知れない。厳しい環境の中で本来の寿命を全うできる確率は限りなくゼロに近かったと思われる。ほとんどの人間はぼけが問題になる年まで生きられなかったろう。人間が老後の心配をできるようなゆとりがもてるようになったのは何年位前の頃なのだろうか。そんな事を思うと人類史上のボケ元年は記念すべき進化の一里塚の筈だ。