技術断想:小さな力

2010/10/4

技術断想:小さな力

かつて小さな親切というコトバが流行った。経済の高度成長期だったと思う。それを提唱したのが東大の茅 誠司総長。当時は東大総長も社会に対して色々アピールして社会も関心をもってそれを受け止めた。

WIKIPEDIAによると、茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日 - 1988年(昭和63年)11月9日)は、神奈川県生まれの物理学者で専門は、強磁性結晶体の研究。1923年(大正12年)3月 東北帝国大学理学部物理学科卒業後、本多光太郎に師事した。

東北大学の磁性研究は有名でその研究から日本の近代産業の芽が伸びてきたとも言えるようだ。物質の持つ磁性研究はモーターやテレコやビデオという磁器記録装置(この装置の稼動にもモーターが不可欠)の開発につながる。自分が大学で卒研をしている時、同じ研究室で磁性ワイヤーメモリーの研究をした学友がいた。指導教官は東北大学から来られたS先生。その当時もまだ東北大学の磁性研究というDNAが流れていたのかと今更感じている。

ともかく、磁性も小さな力が沢山方向を揃えることで大きな力になるのである。極微少な磁石材料の磁極のNSの向きがばらばらだと打ち消し合って磁力は生じないのだ。茅先生が小さな親切という運動を提唱したのもそのような物性を見据えて、多くの人間の小さな善意を積み上げて大きな力にしたいと思われたからなのだろうか。当時は高度成長で我も我もと他人にかまわずに自分の欲求に走った時代でもあったのだろう。小さな親切大きなお世話という揶揄の声もあった。

話は電気カミソリの刃の動きに変わるが、考えてみると電気カミソリの刃の動くのもモーター(磁力)の働きによる。長らく愛用してきたニカド電池用の電気カミソリの薄い金属製の穴あきカバーもすり切れてすき間ができているが、まだ動くので現在は予備機として残っている。なぜ残しているかと言えば、電気カミソリは時々動かなくなる時があるためである。その原因は大抵、刈ったヒゲの掃除の不徹底にある。モーターの回転部にヒゲやゴミが入り込んで回転を妨げている場合が多い。

しかし、きれいに清掃しても動かない場合がある。モーター以外の電池や充電部が故障したのかとあきらめて、更に一台買い求めて現在二台が動いている。回転刃と振動刃と方式は違うが、モーターが動かないという同じ症状になった。なにかおかしいと思い、危険ではあるがカバーを外してSWをいれてみると両方元気良く動いた。ヒゲをきれいに刈るにはカバーと刃の間隔が狭いほど良いが、余り狭くするとカバーと刃が接触して問題になる。電源やモータの能力が大きければカバーと刃の接触摩擦力を振り切ってモーターは回り出す可能性があるが、電池動作の電気カミソリでは起動時の力にも限界があるようだ。電気カミソリの構造的理由で刃とカバーが接触して回らないと言う証拠を挙げることは、外から見えないので素人には不可能に近い。ただ、現象的にはカバーを心持ち引き離してSWを入れると回転するので、小さな引っかかりによる抵抗力でモーターが回り出さないものだと現在は確信している。見えない小さな抵抗力があるだけでモーターは回転を始めない時があるのだ。

会社時代にモータ駆動用集積回路の設計をしていた技術者にモーターを確実に起動させる苦労話を聞いた事がある。モーターは反発力と吸引力をうまく回転力に変える装置であるが、モーターの固定子と回転子の位置が吸引する場所で止まっている時は起動しにくいとい事だった。逆にお互いに反発する位置で止まれば、次回に起動するときその反発力が起動を助けてくれるのである。好きだが好きと言えないような人間のとまどいも同じ様な症状に見える。要するに動き出すには抵抗力に打ち勝たねばならない。設計が上手なモーターならば電池がへたりかけても弱い回転が始まるが、そうならないモーターも中にはある。設計精度や巻き線や素材のばらつきも影響しそうだ。こういう所に技術力の差が出るのであろう。モーターを確実に起動させる技術・ノウハウは重要で、特許も多くあるようだ。

ともかく、普段気づかない小さな抵抗力がモーターの回転を阻止して、故障のように見える事もある。一般の使用者に対してはこれは立派な故障である。しかし、ある時は回り、ある時は回らないという電気カミソリを返品するのも抵抗感がある。こういう症状が出る機械に当たると使用者もイライラしてついに機械を手放す事になってしまう。こんな状況を人間の世界に当てはめて考えてみるとどうなるだろうか。心当たりはいろいろある。

小さな親切、小さな力(誉めるだけでなく、叱り、尻を叩き、尻押しをしてやる等々も含めて)は外部の要因で簡単に行動が阻止されくじけてしまいそうなところに、与えてやると、物事がうまく回るきっかけなる事が多いのではないかと常々思っている。特に動き出そうと力をためている状態での一押しは非常に大切であろう。このような状態を(発達)心理学ではレディネスと言うと習った記憶もある。

ところが、最近は見知らぬ人に声を掛けられたら、それに応じてはならないと幼児は教えられている場合が多いだろう。愛らしい幼児に声を掛けたくなるのは人間の心理であろう。そのように他人から声をかけられ、幼児が応答するなかに社会への適応が学習されて行くのだろう。また、見方を変えれば、幼児にかける一言も小さな親切であろう。幼児もその一言にうまく対応できると人間に対する信頼感を高め自信を持つようになるのだろうと思う。今日の状況では、大人もあえて幼児に声を掛けるのを控えてしまう。幼児が社会的な適応を学ぶ時期に人間不信を植え付ける教育が無意識の中に行われているようで行く末が案じられるような気もする。社会生活に不適合な症状をしめす人間行動はいろいろあるが、日本の社会は人間不信の泥沼に入ってしまったのではないか。人間個人の病理現象というより社会の病理現象が蔓延しているのが現代日本なのではないか。そいう視点から茅 誠司氏が提唱した小さな親切は、現代では(また現代でも)大きな意義を持っているのではないかと思う。

パソコンの動作もBIOSの起動からはじまり、車もエンジンの点火から始まる。その時に必要なのは正しく動作するわずかなエネルギーだ。問題はそのような小さな力を受け入れて動き出すための条件整備である。このような小さな力にも関心を持ちたい。人間社会にあっては小さな力で一押ししてやるだけで物事がうまく回転する場面も多々ありそうだ。これは、幼児も大人も同様であろう。物事がうまく回転を始めると回転エネルギーが蓄積されようやく本来の仕事が順調に進むようになるのである。