2010/12/21
雑草句録:忠治忌(没後160年)
本日は国定忠治没後160年の命日である。偉人の生誕は祝い・感謝すべき大義名分がある。その偉人がいなければ、後世はその恩恵を受けられない。国定忠治の場合はどうなのか。後世は国定忠治から何を受けたのだろうか。意見や議論は分かれる。現代はその議論さえ報道等で加熱して短絡的なムードに流れる。それでは死に様はどうなのだろうか。我々凡人にはまねの出来ない死に様ではないかと思う。今年は裁判員制度が初めて実施された記念すべき年でもある。刑事裁判は証拠に基づき罪を明らかにして刑を定めることが中心になると思うが、時代や裁判制度は異なるが、もし裁判員が国定忠治を裁くとしたらどのような判断になるのであろうか。
国定忠次について記録した歴史資料は意外に少ないようだ。信頼できる基本資料として幕府の高級役人であった羽倉外記が書いた赤城録(せきじょうろく)がある。群馬県立図書館にそのコピーがあった。しかし、漢文で書かれており手に負えない。その後、調べてみると佐波郡東村の村史の第四編「国定忠治関係資料」に原文と書き下ろし文が収録されているのが分かった。それによると、国定忠次は八月二十四日に逮捕され、十二月十六日に監獄に送られた。処刑の前夜と当日の様子を赤城録の読み下し部分から引用する。
「忠治曰く、関下壁氏うん?芳烈、口に称(たた)ふ。願くは一椀を吃(きつ)し、微酔即ち寝ん。明日法場に赴きまた一椀を吃して曰く、本州の酒を飲み、本州の土と為る、快(こころよ)き哉。既にして酌更へてまた一椀を斥(しりぞ)けて曰く、刑に臨み沈酔するは死を畏るる者の事なり、と。再び飲まず寝たり。鎗を執る者、鷺歩の斉(ひとし)く進む霜鍔鏗爾(そうがくこうじ)として面前に叉す。忠治、き?然として監刑者に謝して曰く、此の行、多荷、各位心に費す。槍手鉤声、槍を引き旋して左肋を刺せば、鋒右肋に出づる数尺。右はまた之の如し。左右互に刺す凡そ十四、始めて瞑(めい)す。時に四十一。後五日、宇右衛門斬られ、清五郎流され、お町お徳幽閉され、清松先に監内に死す。」
旧佐波郡東村が村史の中に相当の紙数をさいて「国定忠治関係資料」という編をたてて関係資料を記録に残している事は何を意味しているのであろうか。その資料の中では「国定忠次」ではなく「国定忠治」として扱う旨書かれていた。「国定忠治関係資料」は村の正史としての扱いではなく、関係資料としてであるが、村の歴史から抹殺できない、抹殺すべきでないという意識と行動の現れであるように思われる。その東村も平成の市町村合併で消滅してしまった。
■忠治忌や意見割れども墓朽ちず