読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(6)

2010/12/22

昨日は国定忠次没後160年の命日という事で自分なりにこの年月の重みを考えた。寿命が80や90歳は当たり前という時代になっても人間その日暮らししかできないように感じている。しかし、よくよく歴史をたどると、ある歴史事象が起こるのにも、親、その親と二代や三代まで遡る因縁があるようだ。国定忠次というイメージもそういう歴史の流れの中で現在も生きているのではないか。今朝の上毛新聞の一面に前小寺群馬県知事死去の記事が載り、まさかと思った。国定忠次の死を振り返っているその日の出来事なのだ。死といえば、高山彦九郎は47歳の時(寛政5年/1793)自刃しており、その覚悟の重さを感じる。

以下本題。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(6)

○「親子の絆を切々と」の章

歌人須永義夫は彦九郎の子供達(幼い末子を除く)の以下の歌を掲げ、「上の三人はそれぞれ歌を記して父を慰めている。」と記している。

■しぐれして濡れにぞぬれし紅葉ばの 訪ふ人もなしあはれ世の中  せい(12歳)
■喪屋に居て越すへを見ればあはれさに 涙こぼるるおくつきのまへ  さと(10歳)
■待つといふその言の葉のちぎりもて 千代もかはらぬ敷島の友  義助(8歳)

かっこの中の年齢は彦九郎の祖母の服喪が終わる年のもので、「これらの歌にはそれぞれ子の立場から父を見つめる眼が働いている。せいは年長だけに彦九郎の志を入れ難い『世の中』にまで言及しているのが注目される」と著者は記す。

「敷島の道」は狭義には和歌の道で、義助の歌では「敷島の友」を学問の友ととり、「その大切な勉学の友をひたぶるに待つ歌である。」と解説している。これらの歌の出典や詠まれた場面については具体的に記されていないが、十歳前後の年齢でこれほどの歌を詠んだことに驚嘆する。しかし、彦九郎が三年の喪に服したという事は、この三年間は子供達と一緒に過ごしたのであり、子供達の勉学や人格形成という点では非常に貴重な期間であったと思われる。彦九郎の喪屋での行動は対社会的な面が多かったかも知れないが、家庭での夕食の団欒時等、子供達に歌の手ほどきをしたり、自分の理想を語ったりしていたかもしれないとつい想像してしまう。

せいの歌を自分なりに解釈してみたい。その前にさとの歌を理解する必要がある。父彦九郎とさと自身の位置関係である。「越すへ」とはこちらのあたり即ちせいの方へ、喪屋にいる彦九郎が視線を投げかけているその父の姿をみるとあわれさに涙がこぼれる。さとはどこにいるのだろうか。先祖代々の墓の前にいるようだ。彦九郎が喪屋から呆然と墓所に視線を投げかけて喪に服している様は子供ながらに、さとの涙を誘った。彦九郎が祖母を崇める姿勢がさとにも強烈に伝わっていたと理解できるだろう。しぐれしてとは雨が降ったり止んだりして天気が落ち着かない様を表し、紅葉ばは濡れにぬれてしまった。従って、その美しい紅葉ばを見るために訪問する人さえいない。しかし、視点を変えると時雨れるには涙をこぼして泣く意味もあり、紅葉は血の涙にも例えられる。そうすると、せいは紅葉ばにたとえて、父を訪問する人もいないような世の中を心底からつれないものと嘆いてその気持ちを歌で表現したととれる。喪に服しているので弔問に訪れた人は多かったようだ。それなのに、訪ふ人もなしと詠むのは彦九郎の志に共鳴して訪れる人もないと著者の指摘に通じる。従って、せいも父彦九郎の境遇を直情的な表現ではなく自然の姿に託して泣いているのである。せいとさとは異母姉妹である。その二人が同じように父の境遇に涙している。彦九郎は自分の娘達には気を許してなにか本当の事を言い残していたのではないかと思えてしまう。そうなると、義助の歌も単に待っているととらずに、ずっと昔から変わらない大和心を持つ同志が現れるのを待っているととれるのかもしれない。

「だがこれらの親子の絆もはかなかった。」と著者は記す。詳細の事情は記されていないが彦九郎と妻子との別離が訪れた。妻子は生家や親類に託される。著者はその原因に内縁という浅さと兄専蔵の迫害を挙げる。高山彦九郎は家族を不幸な目に遭わせて自分勝手な行動をしたので評価できないという人の話を聞いた事がある。公私、忠孝等人倫規範とバランスをとる事は難しい。親子の場合でも極限に至れば親子の縁を切るということもあり得る。見方を変えれば親子の縁を切っても命を落とすよりましである。共倒れは最悪の事態になる。彦九郎が一人行動を起こそうとする時妻子を生家や親類に託した意味を考えてしまう。