読みかじりの記:虫眼とアニ眼

2011/1/12

寒い毎日。昨日は風は少ないが底冷えする寒さと気象予報士の話。
アメダスの昨日の天気:

TAVE= 1.9
TMAX= 6.6
TMIN= -1.5
DIFF= 8.1
WMAX= 4
SUNS= 4.8
RAIN= 0

以下本題。

読みかじりの記:虫眼とアニ眼

新潮文庫の一冊。養老孟司と宮崎駿の対談+αという構成である。養老孟司は解剖学者で昆虫が大好きという事で虫眼で、宮崎駿はアニメ監督でアニ眼でこの世界を語ってくれたのがこの一冊であろう。その対談があってから既に十年程度経ているが特に古さは感じない。この虫眼とアニ眼の持ち主も共に戦前の生まれで、戦後の空気を吸って、戦後に活躍されている方々である。そうして、話題はあちこちに飛ぶが、その底流あるのが環境と人間の事ではないかと思った。

自分が生きてきた生活空間と時間は良い方に変化するにしろ、その逆にしろ、完全には否定しがたい。しかし、これで良いのかという問題意識を虫眼養老孟司は解剖のメスを通して、アニ眼の宮崎駿は作画の鉛筆を通して語り合っている。このメスと鉛筆を自分の専門道具として持っている所に、一般人や評論家と異なる眼力が現れてくるようだ。

ところで「眼」とは目玉そのもの。「目」とは流し目というように、眼の働きを含め更に広い意味がある。自分は養老孟司や宮崎駿より遅れた戦後世代だがほぼ同じ環境と時代を技術者として生きてきた。戦後の文化でテレビが果たした役割は非常に大きかったと思う。自分もそのテレビ用集積回路の開発に従事した。それでは、その眼を何と言ったら良いかと考えた。TVの撮像菅やCCDを考えると電子眼で略せば電(でん)眼。もっと気取ってE_眼(イー・メ)。工学という土台を目玉と考えると工眼(こうがん)。これでは響きが悪すぎる。工学は人工物を使って視覚情報を飛躍的に扱いやすくした。すると他人や機械の目玉で見た物をあたかも自分の目玉で見た錯覚を起こしてしまう。結局、自分以外の眼という事で他眼、外眼という事になってしまいそうだ。

虫眼もアニ眼も自眼だから価値がある。養老孟司も宮崎駿、戦後大きく変わってしまった社会や環境の中で、人間性を回復するにはどうするか、そこまで大声では話していないが、その第一歩として、自分の眼をよく使い、それを信用せよと言っているように感じた。TVは一方ではニュース等の情報の伝達に多大な影響をもたらしたが、負の側面としては巨大な妄想と自己喪失をもたらしたのではないか。本の冒頭には「養老さんと話してぼくが思ったこと」と宮崎駿が描いたイラストのカラーページが続く。その終わりに「これは夢ではありません ぼくらのこころのふるさとが、どこにあるのかを考えれば実現する力も意味も、この国の人々は持っていると思います 」と結んでいる。

養老孟司氏と宮崎駿氏が単に過去や古里を振り返っているのではない。歴史の中には振幅は微かだが、波長の長い流れも潜んでいる。それに気付く人も少ない。それを幾つかの歴史上の事実に重ね合わせると見過ごされた過去や起こりうる将来の姿が浮かんでくるのではないだろうか。工学的にはノイズの中に潜んでいる情報を引き出す、相関器というのがある。養老孟司氏と宮崎駿氏が相関器になって、ちょっと位相をずらせて語り合うことにより、ノイズに埋もれた世界から何か新しい世界が覗けたように感じた。