読みかじりの記:会社人間だった父と偽装請負だった僕 赤澤 竜也 著 (ダイヤモンド社 2009年)

2011/5/14
地面が湿っているので苗を定植。堀上げた苗から土が落ちにくいので、灌水無しで活着すると思う。これも手抜き手法の一つ。一昨夜の夜8時頃、カラスが泣き叫んだ。翌朝、庭にカラスの死骸があった。鳥インフルかと思って届けをしようと後で見たら姿がない。40~50m離れたところにカラスの翼があり、蟻が群がっていた。野良犬か猫の仕業か。これは埋葬。もう一羽子カラスを保護した。こちらは、今朝野鳥保護施設に引き取ってもらった。東京電力の損害賠償を補う政府の原発事故補償の支援策が決定されと報道されている。最終的には原発事故の損害事故に対して何の責任もない電気利用者に尻拭いさせる図式である。電気利用者には税金と同じように総額で多分数兆円単位の追加負担が生じるだろう。こんな理不尽な事はない。東電社長は参議院予算委員会の参考人として従業員の年金には手を着けないと証言している。東電幹部役員の責任も明確にされていない段階でなぜ、気前よく支援策なのか。結局利権の先取りにすぎないのか。上毛新聞によると追加徴収額も10年間では10~20万円程度になりそうだ。これほどの額をただ取りするのか。対価として株式を交付する事等を考えるべきではないか。

昨日の天気

TAVE= 19.3
TMAX= 26.4
TMIN= 14.4
DIFF= 12
WMAX= 5.8
SUNS= 9.1
RAIN= 0

読みかじりの記:会社人間だった父と偽装請負だった僕 赤澤 竜也 著 (ダイヤモンド社 2009年)

この本のタイトルの見出しには「さようならニッポン株式会社」と書かれている。自分をとらえたのは「会社人間だった父」と「さようならニッポン株式会社」であった。この部分に自分の社会人であった時期が重なるためだ。男にとって父を乗り越える作業は困難であり、そう簡単に済ませる事は不可能だ。そんな事を通読して改めて感じる。父も息子も時代も刻々と変わる。お互いに本当の姿を見せ合うのは両者の人生の一瞬にすぎないのかもしれない。そんな事はもともと無理なのかもしれない。父も息子もその生まれた時代の宿命を背負う。更に、家庭と社会における役割も背負う。現代においては、ほとんどの父が自分の仕事や働きぶりを息子に見せられるような仕組みがない。本書は著者の父が倒れるところから始まる。これは著者にとって人生を振り返るビッグバンのような位置付けになるようだ。そうして、父を理解するためには祖父も知らねばならない。三代を振り返ることによりようやく自分の位置が定まる。時代が時代ならばとつい甘えてしまい勝ちだが、その時代の変化の影響を受ける程度も人さまざまではあろう。著者も父に反発して出奔するが、父と同じような職業にも就いた。父を理解する事は自分を理解する事でもあろう。そのような気持がつのる頃には父はいない場合が多い。この本は、著者の家族のありさまを通して時代に迫ろうとするノンフィクション作品であると思う。そこには、心理的ハードルだけではく、克服しなければならない多くのハードルがあったようだ。そのような流れから、後半の「偽装請負だった僕」に繋がってくる。この部分は一種の潜入レポートのように感じる。時代の歯車に巻き込まれていないように感じたのは幸せだったかもしれない。むしろその冷酷さに迫ろうとした様子が窺われる。「二〇〇五年夏、僕はトラック運転手に転職した。どうしても肉体労働をしたかった。」ここでは、実態は派遣だが扱いは請負とされて、過酷な条件がトラック運転手に課せられている様子を自分の体験を通して描いている。「会社人間だった父」と「偽装請負だった僕」は社会体制や価値観でも断絶している。社会体制や価値観さえゆらいでいるのが現代社会ではある。「さようならニッポン株式会社」の後に情報化社会が到来している。甘い言葉で財布の紐はこじ開けられ、中身は知らぬ間に吸い取られる。報道は正社員、派遣社員、パート社員、アルバイト等身分差別的用語を堂々と使っている。流動化は金どころか文化や価値観や人格にまで及んでいるようではある。アイデンティティ、自己同一性を喪失するなかれと教えてくれる一書ではないかと感じた。父に逆らい、世に逆らうのも自己同一性確立の第一歩ではなかろうか。

以下本題。

かみつけ女流歌人 雅:石榴花コース

歌題=石榴花コース:

■手をつなぎ 二歳の孫も 登りゆく 初秋の風の 清し白根山 50 島田 みより

二歳の孫と手をつないで白根山を登った様子がリズム感よく詠われている。