老人の寝言:「失敗学」は失敗の連続だが、失敗した本人にとっては最高の薬だ

2011/5/25
昨日は朝から雨で、寒いくらいであった。XPパソコンでインターネット。外観はWIN MEの現用のメイン機にできるだけ合わせた。お化粧で外観が大分変わっているが骨格は余り変わっていなかった。OFFICEはOPPEN OFFICEを入れた。東京電力もホームページに色々情報開示を始めたが、何を今更という感じである。

びっくりしたのは、ホームページの第一ページの下方に、< 計 画 停 電 に つ い て >というタイトルで、「 今後の計画停電につきましては、皆様に節電のご協力をいただきながら、「原則不実施」を継続できるよう追加供給力の確保などに努めておりますが、万が一需給逼迫が予想される場合には、やむを得ず計画停電を実施する場合がございます。何卒ご理解、ご協力のほど宜しくお願いいたします。」とちゃっかり書かれている。

「万が一需給逼迫が予想される場合」とは、東京電力にとっては計画停電は想定内なのか。「原則不実施」と予防線を張っているが、ゴウゴウとした顧客の不満を背景に公約した事である。「皆様に節電のご協力をいただきながら」は言わずもがなだが、顧客に責任をなすりつけるような態度にみえてしまう。単に、非難をかわす情報操作で終わらせては社会的な責任が問われる。東京電力は「原則不実施」を保証する、現時点で実施している具体的な対策と確保した電力量のデータを刻々開示すべきである。

昨日の天気

TAVE= 15.2
TMAX= 20.8
TMIN= 11.6
DIFF= 9.2
WMAX= 3.5
SUNS= 6.1
RAIN= 22

老人の寝言:「失敗学」は失敗の連続だが、失敗した本人にとっては最高の薬だ

YOMIURI ONLINEは、「原発事故調設置、委員長に「失敗学」の畑村氏;url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110524-OYT1T00256.htm?from=yoltop((2011年5月24日10時12分  読売新聞)))」というタイトルで、「政府は24日の閣議で、東京電力福島第一原子力発電所の事故原因などを検証する事故調査・検証委員会の設置を決定した。 仙谷由人官房副長官は同日午前の記者会見で、委員長に「失敗学」の研究で知られる畑村洋太郎東大名誉教授(70)を起用すると発表した。」と報じた。

かつて、在職中に業務マニュアルを作成した。その姉妹編として失敗事例集を作ろうとした。その事例を体系的に集める事の難しさに直面した。中には否定的な見方をとる者もいる。確かに、失敗の本当の原因を調べるには当事者の全面的な協力が不可欠なのである。ところが、当事者はその失敗の責任感、周囲の評価等でなかなか協力する気になれないのも事実である。当時は、失敗を記録する書式を作り、その書式の範囲に記入してもらいファイリングした。大きな失敗はそう頻繁に起きることでもないので、時間が経るに従い、そのシステムが稼働している事も知る人が少なくなった。任意協力でやれば、うまく行けば良い事例が集まるが、協力が得難い。一方、人事評価等に連動して強制的にすれば、資料は確実に集まるが、その内容が形式的になり事例集としての有用性も余り期待できない。いわば、失敗事例集はフィードバックシステムと同じような特性を持つ。フィードバック量を最適にコントロールする事が難しいのだ。業務マニュアルをISO9001のような品質管理システムに組み込み、失敗を起こさせないようなプログラムを組んで日常の業務の中で実施するのが現実的であると理解するようになった。これは一種のフィードフォワード方式のようにも見える。一般に物事が順調に進んでいる時に予防に金をかけることは民間会社としては難しい。とくに下っ端が言い出すのは至難の業だ。そこは経営層が責任を持って指令しないと進まない。システムは通常一番弱いところがあるのは事前予想できる場合が多い。想定内、想定外と議論が責任論とからんで進む場合が今回の原発事故ではあるが。物事は一面だけでは全体が見えない。外部の利害のない人が見るだけで新しい発見もある。それが外部監査でもある。ところが、監査も形式的になると、コストと時間だけかかるという弊害だけに終わってしまう場合もある。そんなわけで、「失敗学」が成功し難いのは想定内なのである。日本がなぜ無謀な戦争に走り敗戦までに膨大な人命と財産を失ったかという敗戦を解明するために失敗学が叫ばれたが、それも成功したとは言えないだろう。やはり、失敗は失敗した当事者が正すのが最適なのである。

以下本題。

かみつけ女流歌人 雅: 肥後山茶花

歌題=肥後山茶花:

■今年また 真白き花を 咲かせおり 門外不出の 肥後の山茶花 47 柴田 包子

門外不出で真冬に咲く白い山茶花が今年も咲いたと花木への愛着心が溢れる一首。