読みかじりの記:電力の鬼・人生の鬼 松永安左エ門に学ぶ 宇佐美省吾 著 (1981年 実業之日本社)

2011/6/3
昨日は肌寒い天気。梅雨らしい雨。政界も梅雨の雨と同じような鬱陶しさだった。野党が提出した内閣不信任案が否決された。空々しい結果を国民は醒めた目で見るだけだったように感じる。結局、政界全体が保身にまわって、被災者や国民は置き去りにされてしまったのだ。総理大臣が引退をほのめかしただけで、このような結果になったのか。現総理と前総理が密談して大芝居を打ったのか。そうでもないだろう。政界全体が活力を失っているのだ。議決後の与党首脳の発言の不一致も政治家への信頼を失うだけだ。政治が根無し草になってしまった。結局、東日本大震災版の内閣不信任案議決騒動も、貴重な時間を空費して、国民の政治への信頼を更に低下させ、国際的には日本人の馬鹿さ加減を見せつけて何の効用ももたらさずに大失敗に終わったのである。政治家の無気力と自己保身が東日本大震災の二次被害を加速させているのである。今こそ政界は国民に対して総懺悔して、政界自体を復興させなければならない時ではないか。

昨日の天気

TAVE= 14.3
TMAX= 15.2
TMIN= 12.8
DIFF= 2.4
WMAX= 1.4
SUNS= 0
RAIN= 5

読みかじりの記:電力の鬼・人生の鬼 松永安左エ門に学ぶ 宇佐美省吾 著 (1981年 実業之日本社)

東京電力福島原発の事故をうけて、日本のエネルギー問題の見直しが迫られている。エネルギーとはまさに、労力・動力そのもので、抽象的には物体の運動、更には電磁界力、核力と物理学の本質部分に関する概念でもある。電気エネルギーの利用は物理や化学の進歩が工学という実用学の進歩を促す中で進んできたといえるのではないか。本書が出版された頃、自分はやっと一人前の技術者となったばかりであった。入社したら、モーター関係の仕事をさせられると思っていたが、配属先は半導体であった。予想は外れた。当時の電気工学系の就職先で、安定株といえば電電公社や東電や日立・東芝・三菱等の重電であった。そんな中で、ツンドク状態でほこりまみれの書棚の奥に潜んでいたのが本書であった。著者は父とほぼ同年配の大正5年生まれ。松永安左エ門は明治8年生まれで、慶應義塾に学び、福沢諭吉からも、直接教えを受けていると本書にある。

松永安左エ門は既に戦前に電力業界で地歩を固めたが、電力の国家統制には反対して、60才で現役を引退して、茶の世界に遊んだようだ。これは、東北電力会長を務めた白州次郎にも通じる所があるように思えた。また墓や戒名にもこだわらなかったという点では、両者とも合理的精神では共通していたように見える。本書の著者は昭和10年、20才台で電気業界紙のオーナー兼記者とあり、その後も電気業界を見てきたようで、松永安左エ門の側近のような立場にいたようで、本書の書きぶりからもそんな印象を受けた。松永安左エ門の現役引退から終戦直後までの期間は、再起を胸に秘めた充電期間に見えてしまう。茶の世界は単なる遊びの世界ではなく、世情や市場や世界の動向を探る期間でもあったと見た。松永安左エ門は政商に変身したのか。なぜ電力再編を進めたのか。事業と信念をかけた見果てぬ夢があったのか。電力の鬼・人生の鬼とは松永安左エ門の見えざる部分を暗示しているように感じる。

著者は戦後の電力再編の動きを松永安左エ門を中心に据えて人物中心に描き出す。本書は電力再編劇人物列伝のようで、電力再編にどのような人物がどのような動きをしたかがあざやかに描かれている。また、業界を見てきた著者らしく、技術的な流れも出てくる。松永安左エ門の構想は一方の電力国営化に反して、電力分割民営化の九社体制であった。ここに、福沢諭吉の自由・平等というDNAを受け継いでいるのか。終戦直後は、電力再編劇も国、その上に君臨したGHQ、電力経営者、官僚等々と幅広い分野から役者が出ている。見方を変えれば多くの人物が利権の争奪戦に関与していた。一方ではこのような再編劇で、新しい体制が生まれて、新しい人材が生まれ今日に至っている。本書では、東京電力発足初期の社長名が登場し、輝いているようにも見えた。本書にはその役者の人物評論が随所に見えて本書の読みどころだろう。今日、一部方面より発電と送電の分割議論が起きているが、先ずは戦前の電力統制から終戦後の電力再編までの歴史をレビューし直すのが良いと思う。その時、必ず国家と電力企業と産業と国民の関係をどうすべきかという問題が浮かび出てくるだろう。そのためには本書が大変役立つのではないか。既に出版後30年を経ているが、実業之日本社のサイトで検索したが、ヒットしなかったので絶版になっているようだ。一方、同社の福澤諭吉:松永安左エ門 著;  書籍 2008/04/18 1,050円がヒットした。「彼が「生涯の恩師」として最大の尊敬の情を捧げた福澤諭吉の人間味あふれる逸話を通じて、福澤イズムの真髄に迫った痛快人物伝。昭和39年に刊行された本書を慶応義塾創立150年にあたり復刊!」と案内があった。福島原発事故を背景に電力事業のありかたを考え直したい人には本書が参考になるだろう。復刊すれば、それ相当の読者はありそうだ。しかし、時代は変わってしまった。本書には、「”女道楽”道に見る鬼の側面」という怖そうな一編がある。事業も人生も鬼で通した松永安左エ門という異色な実業家であって初めて可能であったのかもしれない。復刊する場合はこの一編は削除できないであろう。当世の軟弱な識者・先生達はこの鬼の側面を幾ら指弾しても、松永安左エ門を超越することは出来ないと思われる。松永安左エ門は長寿を全うし、昭和46年に96歳で永眠した。今、松永安左エ門に学ぶとすれば、こちら側から鬼の声に耳を傾けねばならない。

追記:松永安左エ門は鉄が国家なりから、電力は国家なりという産業の構造変化を見通しができたから成功できたように見える。家電が台頭して家庭の電力消費量が増大するのは松永安左エ門の没後ではないか。その点、民生部門の電力消費を松永安左エ門がどうみていたか興味がある。本書の中でも電力の民間消費者の姿ははっきり見えない。原子力発電もごく僅かしか記されていない。当時としては火力・水力発電が主力であり、エネルギーの変遷も歴史的な評価が必要だ。安価なエネルギーを求めて火力も石油が主流になる(巨大タンカー船の建造)等の記述も参考になった。

以下本題。

かみつけ女流歌人 雅:菊花展

歌題=菊花展:

■医者通いに 明け暮れし夫が 久しぶりに 菊花展を見る 嫁に伴はれ 100 柳澤 はま

老夫婦嫁に伴い菊花展へと家族健常時のお揃いの楽しい外出を詠った。