読みかじりの記:「胎児の世界 人類の生命記憶」 三木成夫 著 (1983年 中央公論新社)

2011/12/14
昨日は晴れ。澄んだ空。赤城山が綺麗に見えた。用事外出。麦茶をコーヒーミルで粉末にして飲んでみた。マアマアの感触だ。当地の放射線量のデータを市のホームページで調べた。ばらつきはあるが、大雑把には0.1マイクロシーベルト程度であった。気になるのが落ち葉掃き。どうも落ち葉には放射性物質が多く吸着しているのではないかと心配している。掃いた落ち葉を集めるとそこの放射性物質濃度が高くならないか。落ち葉は可燃ごみとして焼却炉で焼却されている筈。焼却灰の放射線量はどうなっているか調べてみた。

以下は伊勢崎市ホームページのデータ
*******************************************清掃リサイクルセンター21の焼却灰の放射性物質(url=http://www.city.isesaki.lg.jp/data/seisou/sokutei.pdf)
※採取日 平成23年7月1日
(単位:ベクレル/kg)
試料:ごみ焼却灰(飛 灰)
測定値
セシウム134    セシウム137       セシウム合計      暫定規制値
837         973            1810           8000以下
※飛灰とは、排ガス中に含まれるダストをろ過式集塵機などで捕集したものです。
※測定結果は、国の埋め立て暫定規制値以下でした。
*******************************************

2011/12/13の天気

TAVE= 8.0
TMAX= 12.4
TMIN= 5
DIFF= 7.4
WMAX= 4.9
SUNS= 9.1
RAIN= 0

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読みかじりの記:「胎児の世界 人類の生命記憶」 三木成夫 著 (1983年 中央公論新社)

本書を手にしたのは本書の著者が、高崎哲学堂の講演会の講師かもと思ったことによる。本書の冒頭に「ある地方都市で講演を依頼された。」とあり、本書の備考と以前に引用した高崎哲学堂講演リスト(第84回. 1978年 三木成夫 東京芸術大学教授 「生命記憶と回想」)が一致し予感通りであった。本書が出来る経緯を見ると、高崎哲学堂講演の講演が出版のきっかけになったようにも思われる。

asahi.comは、「井上工業元社長室長ら起訴 見せかけ増資事件で東京地検;url=http://www.asahi.com/national/update/1214/TKY201112130718.html(2011年12月14日0時42分)」というタイトルで、「東証2部に上場していた群馬県高崎市の中堅ゼネコン「井上工業」(破産手続き中)の見せかけ増資事件で、東京地検は13日、元社長室長の前田敬之容疑者(41)ら同社関係者2人、増資を引き受けた「アップル有限責任事業組合」代表の奥村英容疑者(61)、証券ブローカーの高橋利典容疑者(63)の計4人を金融商品取引法違反(偽計)などの罪で起訴した。 同法違反容疑などで逮捕された井上工業元社長ら3人について、地検は「関与が薄い」として処分保留で釈放した。 」と報じた。

高崎という地方都市で生まれ育った文化(メセナ)活動がこのような事件と共に消えて行くのは残念である。本書の出版が高崎哲学堂講演がきっかけとなっているとすれば、成書として著者の思想を残す役割も果たしているのではないかと思う。

「三木成夫;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%88%90%E5%A4%AB;(最終更新 2011年7月27日 (水) 01:30 )」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「三木 成夫(みき しげお、1925年12月24日 - 1987年8月13日)は、香川県丸亀市出身の解剖学者、発生学者である。 丸亀中学から六高、九州帝国大学航空工学科、東大医学部と進み、東大助手を経て、東京医科歯科大学助教授、東京芸術大学教授となり教鞭をとった。 生前に出版された本は二冊(『胎児の世界』中公新書、『内臓のはたらきと子どものこころ』築地書館)にすぎないが、死後続々と遺稿が出版され、解剖学者・発生学者としてよりも、むしろ特異な思想家・自然哲学者として注目されている。 三木が思想的影響を受けた人物としては、冨永半次郎、ゲーテ、クラーゲス、宝井其角などを挙げることができる。自然科学者としての三木は、西欧近代の硬直化した機械論的、実証主義的立場から距離を置き、人間と自然との生きた自然感覚とでもいえるものを取り戻そうと試みた。そのことが、自然界の中で持っていた固有のリズムを喪失した現代人に、強く訴えかけるものを持っていると考えられる。 死後、ほぼ毎年、「三木成夫記念シンポジウム」が開催されている。」とある。

一読して、本題が「胎児の世界」だが、副題の「人類の生命記憶」の方に重点があるように感じた。そう言う意味では、高崎哲学堂の講演会のタイトル「生命記憶と回想」がよりふさわしかったのかも知れない。ともかく、単に「記憶と回想」では扱う範囲が非常に狭くなるが、「生命記憶と回想」というように、生命のたどってきた歴史を含めると時間の流れが数億年と広がり、その人類の歴史を胎児がたどって生まれる個体発生の中に、「生命記憶と回想」が現れるというような捉えがたいが、否定もし難い何かを訴えている。ここには、つかみがたさと、科学では永久に解けないミッシングリングがあるように思われる。本書は、科学の領域をはみだしているような印象を受ける部分もあったが、科学的事実の上に独自の発想や主観的解釈を加え、我々人間に、時空を超えた原体験とおもわれる曰く言い難い記憶や回想に類似した現象があること解説しているようにも思えた。

動物も植物も進化を考えると全く同じ原理が適用できると思うのだが、どうも動物である人間は動物の進化の方に自己を投影しやすいようだ。西田治文 著「植物のたどってきた道 化石が語る<緑>の過去」と進化の年代では重なる部分があるが、印象は異なる。著者の関心が異なるのだろう。本書でも最後の方で植物を扱っているが、植物と動物の対応関係も追求すれば面白そうだ。性と食という問題も動植物共通である。羊水⇒太古の(母なる)海という連想もかなり一般的だが、植物の場合どのような類推が働くのか。「生命記憶と回想」というテーマの取り扱いも人間の知識や学問の蓄積があって可能になるように思う。胎児⇒種子という連想は働くが、羊水⇒太古の海という類推で植物の羊水に相当するのは何かとつまらない詮索をしている。ともかく植物に向かう視線は動物に向かう視線と異なってしまう。著者はゲーテの「植物メタモルフォーゼ」についても書いている。

現代は余りにも専門化が進んで、科学の知識を統一的に捉える事が困難になっている。一歩間違えば科学という美名の元にあらぬ方向に誘導されるおそれもある。本書では遺伝子工学、バイオテクノロジーに関してはほとんど言及されていない。ヒト遺伝子の数が確定され、ヒトの発生から死滅までの遺伝子の働きが解明されつつある。著者が述べる奇形も遺伝子の発現誤りと解釈できるのではないか。生体が世代間というマクロなレベルで恒常性を保つために遺伝子ができたのではないか。遺伝子も生命体も単純な物質の複合体に過ぎない。動物の身体はタンパク質等からできている。動物の体内では無数の化学反応が起こっている。その化学反応をコントロールする物質の一つが酵素との事。ところがその酵素が効率よく働く温度は、人体で言えば体温の前後らしい。ヒトが暖を求めるのはヒトの祖先を遡って恒温性獲得する前後の記憶が体内に残っているからなのか。

色々連想を重ねると際限が無くなる。連想、類推は楽しい。思考の連立方程式のようでそれを解いてみると意外な解がある時がある。「胎児の世界」は我々一般人には直接見ることが出来ない。著者は学者という立場からそれを見て、標本を作り、解剖して、学者人生の後半に「胎児の世界」に潜む謎を解き明かし、その驚異を一般人に解説するために本書を書いたようだ。読み方により色々な刺激を受ける本だろう。