歴史の転換・歴史の風景:南極観測と白瀬矗(のぶ)。20120131。

2012/1/31(火)
昨日は晴れ。またも、終日ほぼ気温5℃以下の寒い日だった。昼過ぎまで宅内。準備作業等。堀上げた苗の保管スペースがない。別区画に植えることにした。シャベルで畑を掘るが地表数㎝までが固い。昼過ぎになっても土が凍結していた。しかし、やや深い所は凍結していない。ダメモトで植え付けた。寒さで根は休眠状態に入っているはず。寒さという多少のストレスには耐えるのではと楽観しつつ作業。

2012/1/30(月)の天気

TAVE= 1.0  
TMAX= 5.3 最高気温(℃)  5.6  12:51
TMIN= -3 最低気温(℃)  -2.0  21:52
DIFF= 8.3  
WMAX= 4.9 最大瞬間風速(m/s)  10.1(北北西)  13:03
SUNS= 9  
RAIN= 0  

歴史の転換・歴史の風景:南極観測と白瀬矗(のぶ)

ついつい、今年の寒さが恨めしく思う。寒さと言えば、南極と北極。日本が南極観測を初めた頃活躍したのが南極観測船宗谷。その宗谷が南極海で氷に閉ざされて動けなくなり、ロシアの砕氷船オビ号の支援を受けたことを思い出した。

asahi.comは、「南極観測船しらせ、昭和基地接岸断念 厚い氷に阻まれる;url=http://www.asahi.com/national/update/0122/TKY201201220084.html(2012年1月22日17時26分)」というタイトルで、「南極の昭和基地に向かっていた観測船「しらせ」(基準排水量1万2650トン)が21日正午(日本時間午後6時)、基地まであと21キロの南極海で記録的に厚い海氷に阻まれ、基地への接岸を断念した。35次隊の1994年以来で、2009年に就航した新しらせでは初めて。」と報じた。

地球温暖化で南極と北極の様子も変わっているようだ。その真偽は長期間の観測で確かめる以外にない。
Shirase_n_kansokusen
現役引退した南極観測船初代しらせ(下記サンケイ記事参照:DSC=2011/10/6)

サンケイ新聞は、「ドキュメント南極観測 4~自衛艦「しらせ」;url=http://photo.sankei.jp.msn.com/essay/data/nankyoku/4navyship/(2011.10.20)」というタイトルで、「日本を出て5日目の11月15日夕、フィリピン・レイテ島沖を航行する観測船「しらせ」(中藤琢雄艦長、12650トン)で、太平洋戦争末期の「レイテ沖海戦」犠牲者を悼む洋上慰霊祭が行われた。 「しらせ」の建造は文部科学省だが運航は海上自衛隊。乗組員179人は全員自衛官だ。海自では「砕氷艦・しらせ」と呼び、「観測船」という表現は使わない。 オレンジ色の船体に入る「5003」という大きな数字は海上自衛隊の艦番号。5000番台は氷を割って航行できる「砕氷艦」を意味する。「5001」は「ふじ」で「5002」は初代「しらせ」。いずれも既に引退しているが南極観測船だ。 」と報じた。

南極探検で思い出すのが白瀬大尉。「白瀬矗;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%80%AC%E7%9F%97。;(最終更新 2012年1月17日 (火) 05:35)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「白瀬 矗(しらせ のぶ、 1861年7月20日 - 1946年9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。」、「出生と陸軍入隊 [編集]

1861年(万延元年)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男として生まれた。11歳の頃に寺子屋の教師、佐々木節斎より北極の話を聞き、探検家を志す。この時佐々木は、白瀬に対し5つの戒めを教えた(酒・煙草・茶・湯を絶ち、そして寒くても火にあたらない)。白瀬は18歳頃から守るようになり、生涯この戒めを守り続けたとされる。1879年7月に僧侶となるため上京するが、2ヵ月後に軍人を目指し日比谷の陸軍教導団騎兵科に入校。同時に幼名の知教という名を矗に改名した。」とある。

白瀬大尉が青年期から守った戒めは、南極では不可能な、いわば贅沢とも思われる事に過ぎないように見える。平時では誰もが当たり前に行ってしまう。むしろ、一般人の間では、その戒めを守ることは変人と見られても仕方ないだろう。

一方、幼少時に南極探検の志を立て、このような戒めを守るとは、この志を遂げるまで、決して志を忘れまいと、常に自己を鼓舞させたのではないだろうか。「湯を絶ち、そして寒くても火にあたらない」等現代人から見れば、変人以上だろう。WIKIPEDIAによると、白瀬大尉の晩年は不遇で困窮を極めたようだが、本人にとって南極探検だけが本望だったのかもしれない。否、むしろ、南極探検という偉業と共に歴史の中で輝くという遠大な夢があったから、俗人の出来ない戒めも乗りこえたのではないか。

************************
追記(2019/05/06):当記事は019年5月2日(木)にランキング5位に入りその後ランキング落ちした。タイトルに日付を入れてタイトル文字を目立ちやすく編集した。外部サイトからのアクセスであったと推定する。SMARTカウンターというサイトでアクセス数を把握して、風ログが提供するアクセスランキングから読者の傾向を推測している。ランキングに入り公開日から離れている記事は検索エンジンを介してアクセスしていると推定しているが、これも推定に過ぎない。実は、この記事を書いた頃は東京電力福島原発事故を身近に感じていた。脱原発を言うより、冬に足を温める電気アンカを絶ってみようとケツイして昨年の冬まで実行した。これ以上我慢しても、老人の冷や水で終わりそうになって、電気アンカを使い始めた。改めて、志の大切さを実感した。