愛しき古里:地域の小字名「火生石」の意味と由来は?20120227。

2012/2/27(月)
昨日は曇り。日ざしが無く寒い日だった。やはり寒暖の変化が身体にこたえる。昨日の農事会合は無事終了したようだ。そろそろ、スギ花粉が飛ぶ季節だ。「環境省花粉観測システム(愛称:はなこさん):url=http://kafun.taiki.go.jp/GraphWeek.aspx?MstCode=51010100&AreaCode=03」によると群馬県の飛散は未だ少ない。今年は飛散量が少な目ということなので何も対策していない。アレルギー体質も加齢で変わる事があるのか。WEBで「火生石」について調べた。夜、知人が来宅雑談。

2012/2/26(日)の天気

TAVE= 4.1  
TMAX= 8.5 最高気温(℃)  8.9  12:19
TMIN= 1.9 最低気温(℃)  1.7  03:41
DIFF= 6.6  
WMAX= 8.4 最大瞬間風速(m/s)  15.5(西北西)  20:19
SUNS= 0.8  
RAIN= 0  


愛しき古里:地域の小字名「火生石」の意味と由来は?

ある時、郷土史家の星野正明氏から、地域の小字名「火生石」を調査しているという話を聞いた。地名の中に、地域の歴史が刻まれている。そういう歴史家の関心から、地域の小字名「火生石」の調査を続けているが、まだ決定的な結論に到っていないようだ。自分も、その話が頭の隅に残っていた。たまたま、ある地域の歴史の本のコピーを拾い読みしていたら、「火生石」という漢字に「へっけし」とふりがながついているのに遭遇した。先日、その話を同氏に話したら、それは新発見だが、その書名は分かるかと聞かれた。記事のみ分かれば良いと書誌関係の記事はコピーしていなかった。

昨日は、寒さがぶり返し寒かったので、宅内で「火生石」のWEB情報を調べた。そうすると同氏が書いている殖蓮歴史散歩(殖蓮公民館だより)に出合った。「殖蓮公民館だより」には、「殖蓮歴史散歩;http://www.city.isesaki.lg.jp/data/kouminkan/uehasu-k/h23/0801.pdf(発 行 日 平成23年8月1日)」というタイトルで、「東側の土地を舞台、西の土地を光仙坊と呼び、両側が台地でその間の少し低くなっている傾斜地形を利用した七基の須恵器を焼く登り窯跡が発掘されました。平坦地にこの種の遺跡は珍しく、貴重な発見でした。また、この清水の湧く低地域は小字名を火生石(ひいきいし)と呼んでいるのですが意味は不明です。同じ字を用いて同じように呼ばれている場所が新潟県柏崎市と渋川市の樽地区にあることが分かりました。実際に現地を訪ねてみたところ、そちらでもわからないという状況です。さて、どんな結論に達するのでしょうか。とても興味深い話題です。さて、火生石ですが、ひいけいし(火埋石)、ひっけいし(引返し)、ひけしいし(火消石)など似ている言葉を探してみては、その名の由来を考えています。何か意見がある方は教えてください。」と報じた。

「火生石(へっけし)」が書かれていた本の見出しは「大正13年旱害のこと」とあり、その記事の中に「植付不能の土地は『「火生石(へっけし)」』の5反6畝19歩。」とある。
「NOSAIデータバンク(大正2年~15年(1913-1926)) - NOSAIぐんま ....。http://www.nosai-gunma.or.jp/databank/sai-2.htm。」によれば、「大正13年:6~8月 ;干害;利根郡および平坦部において、植付不能田1,000町、用水不足田2,000町、34万石の減収(上毛新聞)」とあり、旱害の事実は本の記事と一致する。従って、「火生石(へっけし)」という田圃の名前が大正13年までは確定していたと考えられる。

ところが、「火生石」が何を意味しているかも難解である。WEB上に、「火生石集落地名;url=http://blog.goo.ne.jp/isao-takabatake/e/21cb2306c9bb279b0ceb3129d19966e6(2007-05-21 22:32:52 |)」というタイトルで、「寺泊郷本~島崎方面に向かう途中、火生石の集落の標識。そのまま読むと、火が生れる石もしかすると火打ち石でも出るのか。図書館の資料で調べてみよう。もし名前の由来等お分かりの方是非教えてください」という記事があった。やはり珍しい地名は関心がある人の目を引くようだ。更に調査を進めると「新潟県三島郡寺泊町大字田頭字火生石という地名も見つけた。古い地名は合併等で消えているのだろう。

「火生石」について、「富奥郷土史http://tiikijiten.jp/~digibook/tomioku_kyoudo/」の「第十七章 村人の生活」の中に、「火熱、電熱 食生活上不可欠の火は、その発火用具が昔は火打ち石と火打ち金だったので容易でなかった。だから火種は毎日絶やすことが出来ず、夜寝る時、いろりの真ん中にもみ殻と堅木の木片を埋め、その上に火生石(ひけしな)という平らな石をのせ、その上に火ばしを交差して置いた。また、たくまいのたくもんば(薪置場)に引火するのを防ぐために、たくまいむしろをかけて置いた。翌朝一番先に起きた嫁は、この埋ずみ火の火種で火をおこし、ご飯やおかずを炊いた。ぼんやりしていて火種を切らすと大変、箱(マスを用いた)に灰を入れて隣へ火種をもらいに行かなければならない。たびたび続くと「間ぬけな嫁」として姑の茶話の好材料になった。
 明治中頃、つけ木と称する長さ十㌢に幅五㌢ほどの薄い板の先に、硫黄を塗ったものが使われた。これは縦に細く割って火種につけると、燃えた硫黄から板に移り、たき木に火がつけられた。マッチが出来たのはそのあとで、はやつけんと呼ばれたのは早いつけ木の意である。これで種火の用はなくなり大助かりだった。当村は平地で山林はなくたき木はほとんど使われず、燃料はわらが主であった。」と記されている。明治の頃の火の大切さを良く伝えている記録だと思う。

「だから火種は毎日絶やすことが出来ず、夜寝る時、いろりの真ん中にもみ殻と堅木の木片を埋め、その上に火生石(ひけしな)という平らな石をのせ、その上に火ばしを交差して置いた。」という部分は「火生石」を解明する手がかりになる。

因みに、富奥郷土史でその地域を、「わが村「とみおく」は、加賀百万石の城下町金沢市の南西約三・五㌔、松任市より東南約一㌔鶴来町より北に約二・五㌔の地点に位置し、現在の石川郡平担地
の中で最も東よりにある。南東の空に霊峰白山の雄姿、その東方に舟岡山から獅子吼高原のなだらかな山なみ、丸い盆を伏せたような倉ヶ嶽、高尾山、大乗寺の小高い山を望み、その真ん中にひときわ高い医王山の麗姿を見る静かなたたずまいの純農村地帯である。」と記述している。

また、「ふらり道草―南丹今昔―(ブログ)」は、「「12月の寛ぎ」 〈3〉;url=http://blog.livedoor.jp/michikusa2007/archives/2011-12.html#20111219(2011年12月19日)」というタイトルで、「来し方を思ひて独り故郷の人住まぬ家(や)に囲炉裏火を焚く    北原由夫
 それでも、囲炉裏の火を囲み、四方山話に興じて暖を取る家族の輪がありました。それぞれの顔を白い火影がゆらゆらと照らします。 面が白くなる愉しさ。それが互いの存在を喜び合う顔であることから、「面白い」と言う言葉が生まれたそうです。 かつての日本中の団欒の火であった囲炉裏。炊事・暖房・照明など火の持つ機能を全て備えた家族の中心であり、「炉を囲む所」と言う意味があります。 火床(ひどこ・ほど)・火城(ひじろ・)・地炉(じろ・ゆるり)などとも呼びます。北陸では居中(いんなか)・家中(えんなか)、九州では居城・火所の他に居端(いばた)とも呼ぶとか。
 厳密に言えば、囲炉裏には土間囲炉裏と座敷囲炉裏がありますが、どちらにも火口箱(ほくちばこ)・付木(つけぎ)・火箸・火吹竹などが置いてありました。 五徳(もしくは三徳)も置いてありました。横座(主人の場所)・嬶座(かかざ・主婦の場所)・客座などがあって、子供は空いている場所に座ったものです。 自在鉤に吊るされた鉄鍋(または鉄瓶)が一日中ことこと音を立て、粗朶(そだ)の燃える煙がゆるやかに梁(はり)を伝わって屋根裏の煙出(けむだ)しへ、と昇って行きました。
  寝る前には、翌朝の火種にする火生木(ひいけぎ)を灰に埋めるのは主婦の役目でした。囲炉裏は、まさに火床だったのです。 今では廃れてしまった囲炉裏。都会住まいや若い方など、囲炉裏を知らない方も居られるでしょう。 口丹波の京北町では、1軒だけ保存している旧家があるとか。その内に訪れたい、と思っているのですが・・・。」と報じた。

上記ブログ記事は、「囲炉裏火」を入口に、火の大切なことを書いている。この記事で「翌朝の火種にする火生木(ひいけぎ)」が「火生」を理解する参考になると思った。

火生石(ひけしな)は、火を消すなという意味もありそうだ。それを逆の方角から見れば、火を生かす、火種を保存する事と同義になるだろう。「火生石」も「火生木」も火種を保存する手段となる資材・原料だろう。

以上をまとめると、火種を保存するには材料に「もみ殻と堅木の木片」を使い、その上に平たい石を乗せたという方法が浮かんでくる。「もみ殻と堅木の木片」はやや燃えにくい燃料だ。やはり、燃料の燃焼が早いと前日の火は翌日までもたないで消えてしまう。その燃料の上に平たい石を乗せるのは、燃料に空気が入りすぎるのを制限する・即ち燃焼のスピードを遅くするための方法だろう。燃料を燃え尽きさせて火を消しても、石を強く押しつけて火を消しても火種は保存できない。火種を保存する方法にもコツがあったというのが、引用した記事から結論できるだろう。

それでは、「火生石」という名前の田圃と小字名の結びつきはあるのか。「火生石」という名前の田圃の場所は特定できていないが、粕川流域に近いと推定している。河床を探せば「火生石」に使えそうな石が採取できた場所かも知れない。ともかく、昔は毎日火を使っているのだから、一家に一個以上の「火生石」は不可欠だったろう。「火生石」という地名も当たり前に現地では通用していたのだろう。「火生石」という地名の呼び方は、「ひいきいし⇒ひいけいし⇒へっけし」となまったものと推定できる。今後、同好の仲間と更に調査検討するのも面白いと思う。

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追記(2015/2/27):「愛しき古里:地域の小字名「火生石」の意味と由来は?」の記事がランキング10位に入った。ランキング入りは初めてだと思う。奇しくもこの記事を書いた日付が2012年2月27日 (月)だった。Googleでキーワード「火生石」を検索すると、約 182,000 件 (0.22 秒) と表示されるが、最後に「288 件」と表示された。"火生石"とフレーズ検索すると、約 1,300 件 (0.14 秒) と出る。WEB上の"火生石"に関する情報もそれほど多くない。三年前は、推論として書いたが、その後の進展はない。昔は、田畑に名前が付いていたようで、地域の人は名前で大体の場所は分かったようだ。農業をしている2~3人の古老に"火生石"という名前の田畑について聞いたが、記憶にないようだ。

WIKIPEDIA「小字。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AD%97)」

"火生石"という小字の西隣が光仙房、東隣が舞台という小字名である。この周辺は、上武道、北関東自動車道、工業団地等の開発のため発掘が行われている。その結果によると、この周辺は石器時代から今日まで人が住んだ証拠となる遺物や遺跡が発掘されている。自分の記憶では、発掘に興味を持つまで、これらの小字名は知らなかった。多分、その地域の人々の記憶からも小字名は消えていったのではないか。

追記(2019/08/05):タイトルに投稿期日を追加。
ランキング=6位

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