心象の足跡:台風で被害を受けた蚕屋の記憶

2012年6月22日金曜日
昨日は曇り一時晴れ。朝方は草むしりやジャガイモの収穫。昼前後は町内行事。助っ人にタケノコを取ってもらう。その後一緒に草むしり。夕方は倒れかかったポポーを立て直して支柱を立てた。収穫したジャガイモは種芋との収穫作物の重量比(R)で約7倍の増量であった。電気ではこの電力増量比10*log(R)をパワーゲインと呼びdbで表示していた。7倍のパワーゲインを計算すると8.5db程度。入社初期の頃、TVチューナー用のシリコンRFトランジスタの評価等の仕事をしたが、そのトランジスタのパワーゲインが丁度この程度であった。このパワーゲインだけに注目すると大きいほど良いのだが、現実はNFや安定度という別な重要な要素もあり、妥協/トレードオフが必要であった。

2012年6月21日の天気

TAVE= 24.6
TMAX= 28 最高気温(℃) 28.6 14:44 
TMIN= 21.1 最低気温(℃) 20.9 04:44 
DIFF= 6.9
WMAX= 2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 4.8(西南西) 12:03 
SUNS= 1
RAIN= 1

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心象の足跡:台風で被害を受けた蚕屋の記憶

群馬県の養蚕をユネスコの世界遺産に登録すべく活動が盛り上がっている。その重要な段階として、伊勢崎の島村にある「田島弥平旧宅」を国重要文化財に指定するよう申請書が提出されたらしい。既に群馬県の養蚕も風前の灯火のようで、かつて栄えた産業を後世に語り継ぐ重要性を痛感している。

最近、当地区の葬儀で、寺の住職が家族に亡くなったおばあちゃんの生前の様子を伺ったところ、おばあちゃんは養蚕の仕事を熱心にやったとの事で、戒名の中に「蚕」という文字を入れましたと法話の中で話された。振り返って見ると、我が家でも、祖母や母も例外ではなく、蚕を飼っている時は、昼夜の区別無く良く働いた。戒名と共に養蚕の事も語り継がれるだろう。

また、かつて当地では有数の養蚕農家であった家が、空き家になった大きな二階建ての家を取り壊した話を聞いた。この家には仕事の最盛期には10人前後の手伝い人が宿泊もしたそうだ。当主も今まで空き家でも持ちこたえてきたがもう限界だと話していた。そのような気持ちは我が家でも同じ。新しい方の蚕屋は住居兼用で作られているようだ。我が家を建てた大工さんの親が建てたとの事。こちらは物置として使っている。もう一つの蚕屋の築年ははっきり分かっていないが古い建物のようだ。そのわけは、不要になった醤油か何かを作る建物を分解移設したと聞いているので、当世風に言えばリユースハウスだったようだ。今は、資材や作物置き場に使っている。終戦直後は、東京から疎開してきた家族がそこに住んでいた。昭和30年代、藁葺きの家を建て直す時に、自分もその家に仮住まいした。あばら屋だがそこに色々な記憶が残っている。

本来はこの蚕屋では蚕種のはきたてや稚蚕飼育を主にしていた。その後は、稚蚕飼育は共同の稚蚕飼育所で行うようになった。当時、蚕室は蚕の病気予防の為か、新聞紙を貼り巡らして隙間を無くし、ホルマリン蒸気で殺菌をしていたようだ。このホルマリン蒸気を吸うと吐き気が起きて、くらくらとしてきたのを思い出す。こういう、細々とした仕事は多分女性の仕事だったろう。また、桑が足りなくなると、遠くの方の余っている農家までリヤカーを引いて買いに行ったという話を聞いたこともある。このような力仕事は男の仕事だった。このような、思い出が一杯詰まった蚕屋もまだ当地では残っているのを散見するが、養蚕を体験したことがない世代に代わると無用の長物に過ぎなくなるだろう。