2012年7月14日土曜日
昨日は朝時々晴れでその後は曇り。それでも気温は高い。ミニトマト、ナス、キュウリを収穫。除草、作物の手入れの時間がほとんど。発芽率は良くないが、食用小豆が発芽していた。小豆種子を水に浸して様子を見たが、幼根が肥大し発芽しそうだという所で中止。雑草の中からひょろひょろのショウガの株が出てきた。売れ残りの種ショウガを植えた物で、時期遅れだったかも知れない。更に水分不足。日陰気味になるイチジクの木の近く植えたが、葉が広がってくると雨が降ってもその木の下は雨がかかりにくくなる。ともかく、ゼロではなかったので工夫すれば成績も上がるだろう。7月13日上毛新聞には、「世界遺産へ前進 富岡製糸 絹遺産群を推薦 文化審議会特別委員委了承 14年の登録を目指す」という大きな活字が踊っていた。そう言えば、町内の生涯学習行事で富岡製糸場を見学した事を思い出した。
2012年7月13日の天気
TAVE= | 26.6 | |
TMAX= | 29.6 | 最高気温(℃) 29.8 14:03 |
TMIN= | 23.1 | 最低気温(℃) 22.8 03:37 |
DIFF= | 6.5 | |
WMAX= | 2.2 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.2(東南東) 23:56 |
SUNS= | 1.5 | |
RAIN= | 0 |
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技術 回顧と展望:近代養蚕・製糸業の夜明け(富岡製糸場見学)
養蚕は父の代で終わってしまった。その仕事を手伝ったり、見たりして育ったので我々の世代にはまだ養蚕という仕事が身近に感じられる。農家でなくても、養蚕が盛んな頃は、農家の手伝い等の仕事があったので、養蚕に関係した人は相当多かったと思う。養蚕が盛んになっても、適地適作という観点からは、養蚕地帯は畑作地帯と重なる。日本の養蚕が栄えたのも衰退したのも、養蚕により生産された繭の最終商品としての絹糸が国際商品だったからだろう。
絹遺産群は、富岡製糸場(富岡市)、田島弥平旧宅(伊勢崎市)、高山社(藤岡市)と荒船風穴(下仁田町)の4資産。明治はじめに国営の富岡製糸場ができた。機械を動かす動力は蒸気機関。富岡製糸場にある高い煙突がその蒸気機関を象徴するものであった。当時は、在来の人力製糸も健在であった事から、富岡製糸場は国策の近代化の象徴とも見られるだろう。いわば、農産物(繭)を加工する工業(第二次産業)の育成とも見られる。農家が繭を作るのは変わらない。しかし、田島弥平等による蚕種の改良・製造は進歩した。いわば、優秀な蚕の種苗生産により農家の需要に応えたのだろう。荒船風穴は蚕種の保管により、蚕種供給期間を延ばす役割を果たした。今日の倉庫業にも通じる。高山社は養蚕技術の普及・人材育成を図った。今日的には、サービス業という第三次産業ともいえるのではないか。
こうみると、絹遺産群も産業関連では、一つのネットワークを作り、総合的な産業形態が生まれてきたのが明治初期と言えるだろう。欠けているのが生産した絹を売る商業の部分。絹は国内流通だけでなく、国際商品として、横浜等の港に集積され、外国へ輸出された。最近、伊勢崎市の指定文化財である旧時報鐘楼建設資金を当時の伊勢崎町に寄付した、伊勢崎生まれで、横浜で貿易商を営み成功した小林佳助について調べた。小林佳助が横浜で開いた小林商店の取り扱い品目は主に薄荷等の薬種や海産乾物だったようだが、生糸の取引をした可能性もあるようだ。
横浜沿革誌(出版社 太田久好 :出版年 1892-07 明治25年)の記事には「生糸輸出濫觴ノ事」、「横浜生糸商江戸糸問屋ト協議横浜ニ生糸荷受所設立ノ事」、「横浜生糸改会社創立ノ事」、「蚕種検査ヲ横浜生糸改会社ニ委任ノ事」、「独乙国キニフル商会買入蚕種紙違則ノ論議生糸会社役員奔走ノ事」、「内外生糸商協議生糸風袋量目約束ノ事」、「横浜生糸売込商結合連合荷預所設立内外商葛藤ノ事」、「横浜市内外国生糸営業者」等生糸に関する記事が多くある。
富岡製糸場等絹遺産群が世界文化遺産に登録される事により群馬県の養蚕・製糸業の理解がより深まる事に期待したい。現役時代は、半導体の売り込みのため、製糸関連企業を訪問した記憶がある。斜陽になりかけた製糸業を新規事業で立て直すために、電子機器や電子部品の開発する部門を作った企業も多かったようだ。開発した製品を輸出して実績を上げている企業もあった。新しい産業には新しい技術と人材が育つ。長い目で見ると、産業も技術も栄枯盛衰の流れの中にある。富岡製糸場等絹遺産群が我々に何を語ろうとしているのかじっくり耳を傾けてみたい。
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(富岡製糸場写真6枚合成:撮影2009年6月)