2013年3月21日木曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 14.1 00:01。ざっそう句:空耳か 鶯の声 一度だけ。町内行事。DSCデータを整理しプリント用に編集。 用事外出。訪問先で打合せと雑談。貰い物。その足でもう一件。寒暖の差が大きく要注意。一般の人が裁判に関わる件数は一生の内どのくらいあるのだろうか。刑事事件で裁判員制度が実施されているが、なぜ民事事件で裁判員制度がないのか疑問に思っていた。毎日新聞がその動きを伝えていた。
毎日新聞は、「憂楽帳:民事への国民参加。http://mainichi.jp/opinion/news/20130321k0000e070177000c.html。(2013年03月21日 12時26分))」というタイトルで、「刑事裁判に市民感覚を反映させようと始まった裁判員制度は、5月でスタートから4年。極端に長い時間がかかるケースへの対応など課題もあるが、ともかく定着しつつある。そこで「民事は裁判官任せのままでいいのだろうか」と思っていたら、民事への国民参加を考える動きがあった。 1月に経済団体や消費者団体などの代表者、学者らがスタートさせた「民事司法を利用しやすくする懇談会」だ。事務局長の小林元治(もとじ)弁護士は「民事訴訟制度を利用しやすいと感じている人は国民の2割程度。この10年間の制度改革で刑事は身近になったのに、民事は立ち遅れています」と話す。懇談会の設立趣意には、さまざまな改革案とともに「国民の司法参加も重要な検討課題」とある。」と報じた。
もっと疑問なのは、裁判で人を裁くより、被告を弁護する事になぜ一般人が参加出来ないのかという事ではないだろうか。件数比較なら民事事件の方が圧倒的に多いと思う。一般人の常識的判断力は弁護活動にも有効ではないか。
2013年3月21日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 7.9 | |
TMAX= | 12.9 | 最高気温(℃) 14.1 00:01 |
TMIN= | 4.6 | 最低気温(℃) 4.2 22:39 |
DIFF= | 8.3 | |
WMAX= | 12.2 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 21.3(北西) 01:44 |
SUNS= | 11.5 | |
RAIN= | 0 |
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寝言老人が幼少の頃(ハトよ 鳴いておくれ;愛しき古里):高山古墳群の思い出
先日、赤堀歴史民族資料館で、企画展「探検家・矢島保治郎展 中国 チベットに足跡をたどる」を見学したついでに、常設展示場も見学した。そこに、「高山1号古墳出土埴輪鞆」が展示されている。かつて、当町内には、高山、行者山、丸塚山という三つの山があり、子供らの遊び場であった。その山が、古墳らしいと気付いたのは小学生中学年の頃だったと思う。
「炭焼きじいさん(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/12/31/)。(2009/12/31)」
「古墳と人骨(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/09/post-2d0b.html)。(2008/9/8)」。
高山、行者山は、開発により平削等が進み、ほとんど見る影がない。ただ、自然の丘陵部に作られたらしく、その自然地形は辛うじて残っている。丸塚山は伊勢崎市の史跡(http://www.city.isesaki.lg.jp/www/genre/0000000000000/1000000000126/index.html)に指定され、辛うじて破壊から免れた。
赤堀歴史民族資料館に展示されている「埴輪鞆(とも)」の説明板に「高山1号古墳」とあり、周辺には幾つかの古墳の集群があったようだ。伊勢崎市史民族調査報告書第一集「三和町の民俗(昭和56年8月31日 伊勢崎市 編集・発行)」を調べたが、古墳に関する記述は無かった。この地域民俗史も今では、当時を知る貴重な資料である。
「高山1号古墳出土埴輪鞆」は市指定重要文化財であり、そのホームページに、「鞆(とも)は革製で巴(ともえ)形をしており、矢を射るときに左手首につけ、弓の弦(つる)が腕にあたるのを防ぐために用いる。この埴輪は、昭和52年、高山1号古墳(三和町)の発掘調査で出土し、鞆と台部からなる。完形に近い状態で発見され、県内でも希少な資料である。製作年代は6世紀前半と考えられる。(http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1354780969798/index.html)」と説明されている。昭和52年と言えば、サラリーマンになって数年後の事。家の近くでの発掘調査だったが、全く記憶にない。
この「巴(ともえ)形」は市章の勾玉の形にも類似している。WIKIPEDIA「巴。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4)」。ところで、この「鞆(とも)」を装着したのは誰だったのか。次々に矢を放つ状況は、狩猟とは思えない。獲物が大型動物であっても昔の狩り人の腕なら数本の矢で仕留めたろう。そうなると、武人の姿が浮かんでくる。近隣の村落との戦闘で勝利した一族がその記憶として古墳に収めたのだろうか。
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