2017年12月10日(日)
昨日は晴れ。ざっそう句;南無阿弥陀 小春の庭で 土いじり。午前、宅内閑居。室内整理を続行。机上にある二台のモニターを片付けた。一台はME機のCRT、もう一台はXP機のLCD。予備機やメールバックアップ用に残していたが、時の流れと共に、縁が薄くなって行く。現役WIN7ノートパソコン二台で、当面間に合うだろうと思う。パソコンも消耗品・道具と考えると気楽である。午後は、庭のタマリュウの改植。風は無く、青空がまぶしい。小春日和とは、こう言う天気の事なのだろう。貴重な時を、独り黙々と土いじりで過ごす。勿体ないほどの贅沢ではないか。植えた株は数日、手箕の中に放置。水分を失い枯れかけているように感じる。植えてからその上を長靴で歩いて鎮圧・灌水。葉の緑が蘇ったようだ。16時頃になると寒くなった。アメダスの気温16時=9.1℃。雑菜一本を収穫して家に入る。室温は13℃程だった。最低気温(℃)=-0.6、23:59。サトイモを収穫しようとしたが先送り。早く収穫しないと霜げてしまう。NTTより2013年初頭のADSL廃止の通知が来ていた。愈々来たか。
追記(2019/09/18):記事にミスがあった(赤字)。「サービス提供終了に関するご案内. 2023年1月31日(火)をもって「フレッツ光」の提供エリアにおいて、「フレッツ・ADSL」のサービス提供を終了いたします。」(https://flets.com/adsl/)
過去記事再読:
ロゲルリスト(改題):ふっと浮かぶ疑問が科学への入り口:科学雑誌で思う事(X=ロゲルリスト⇒◎ロゲルギスト)。091209。
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愛しき古里:地域の教育力:明治中期の地域小学校校長だった矢島昇を知る(12):明治中頃の国家教育
明治の初め頃は、まさに「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」というような文明開化が大きな時の流れを作ったと考えられる。感覚的に、矢島昇が小学校校長在任中の頃から、小さな村を合併させ、大きな村を作る動きがあったのを知った。その流れは、行政組織だけで無く、神社にも及んでいたようだ。マクロ的に見ると、小さな組織体を大きな組織体に改造する動きは、有史以来、今日まで綿々と続いているのかも知れない。大きいことは良いことだと言う喩えが通用しなくなったのは、コンピュータや大艦巨砲主義の軍艦の例を見れば明らかだ。
最近では、トランプ米大統領に原子爆弾の発射スイッチを操作する全権を与える危険性が、アメリカでも議論されるようになってきたという報道がある。組織にトップに上り詰めた人物に苦しめられた例は歴史に満ちている。ハイルヒットラーはもうご免なのだ。
WIKIPEDIA「神社合祀。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%90%88%E7%A5%80)」(このサイトへのリンク)によれば、「明治末期の神社合祀:目的=神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることにあった。また、教派神道は宗教として認めるが、神社は宗教ではなく「国家の宗祀」であるという明治政府の国家原則(宗・政・祭体制[1])に従って、地方公共団体から府県社以下神社に公費の供進を実現させるために、財政が負担できるまでに神社の数を減らすことにもあった。~合祀政策の経緯=神社合祀政策は1906年(明治39年)の勅令によって進められ、全国で1914年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。」
昔聞いた話では、明治維新直後はまだちょんまげを結っていたとの事だ。このちょんまげを切るという風習は、文明開化を強く印象づけたと考えられる。
WIKIPEDIA「散髪脱刀令。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E9%AB%AA%E8%84%B1%E5%88%80%E4%BB%A4)」(このサイトへのリンク)によると、「概要=幕末に洋式軍制の導入が始まって以後、髷(まげ)を結わずに散髪する風潮が広まりつつあったが、この日「散髪脱刀勝手たるべし」として髪型については勝手にし、華族・士族が刀を差さなくても構わないとした(なお、平民の帯刀については前年12月27日(1871年2月16日)に改めて禁止令が出されている)。なお、例外規定として「官吏等礼服の時は帯刀すべし」とされている。これを受けて明治6年(1873年)3月には明治天皇も散髪を行い、官吏を中心にこれに従う者が増えていった。散髪脱刀令は髪型を自由にして構わないという布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではない。」
明治初期~中期の学校教育を理解する資料をWEB上で探していると文科省のサイトに、「学制百年史(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317552.htm)」(このサイトへのリンク)が掲載されていた。丁度、明治百年から十数年後に出版された物らしい。来年、明治百五十年を迎え、「学制百五十年史」を作るとしたら、どんな物になるのか興味を覚えると共に不安も感じた。
「一 幕末維新期の教育= 明治五年の学制による近代教育制度の創始は、わが国教育史上に一時期を画するものであった。しかしわが国においては、明治以前に多数の近世学校が設けられていた。近世学校の発端は室町時代に認められるが、江戸時代にこれらの学校が発達し、近世学校の体制がつくられていた。江戸時代の社会で指導的役割を果たしているのは武士であって、高い水準の学問・教養が求められ、子弟を教育するために学校を設立していた。幕府や諸藩は武士の子弟を教育するため学問所を設けたり、学者の家塾に通学させたりしていた。江戸時代の中期から大藩は、近世武家学校を整備して子弟の教育に努めることとなった。これらの学校が藩校であって、寛政ころから多くの藩は藩校を設けるようになった。幕末維新期には小藩も学校を開設する情勢となり、全国の藩校数は二七〇校ほどに達していた。また、藩内の主要な町などには郷学を設け、ここで地方に居住する武士の子弟の教育を行なっていた。」この項にによると、日本全国的に藩校が普及した事が分かる。
「二 近代教育制度の創始= 明治四年、廃藩置県が行なわれ、中央における政府の行政機構がつくられることとなり、教育行政の府として同年七月文部省が設置された。これから文部省が全国の諸学校をすべて統轄する制度となった。」この項により、文部省が設置され、文部省が全国の諸学校をすべて統轄する制度となった事が分かる。「明治中頃の国家教育」という視点を理解するのに参考になるだろう。
第二章 近代教育制度の確立と整備(明治十九年~大正五年)に目を移すと第一節 概説に「二 明治憲法と教育勅語(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317610.htm)」(このサイトへのリンク)の項がある。この中で、教育勅語の発布の経緯が、「 このように二十年前後における徳育の問題は、各種各様の意見が並立して修身教育をも混乱させることとなっていた。このような論争の中で、地方の教育界においてもこのことが問題となり、どのような方針によって修身科の教授をなすべきかを論議し、地方長官に対して、その基本方針について明確な結論を要求するものもある状態であった。そのため二十三年二月末の地方長官会議においては、徳育の根本方針を文教の府において確立し、これを全国に示してほしいという趣旨の建議を内閣に提出するようになった。この建議は閣議においても取り上げられて論議され、明治天皇の上聞に達した。芳川文相が後に述べているところによれば、明治天皇は榎本文相に対し、徳育の基礎となる箴言(しんげん)の編纂(さん)を命ぜられたとのことである。同年五月榎本文相に代わって芳川顕正が文部大臣に就任したが、その親任式に際して、明治天皇から特に箴言編纂のことが命ぜられたのである。その後徳育の大本を立てる方策が急速に進められ、教育勅語の成立に至っている。」と述べられている。発布の前後には、色々な議論があったようだ。
WIKIPEDIAによれば、教育勅語は1890年(明治23年)10月30日発布にされた。矢島昇が殖蓮小学校校長として赴任した年でもあり、新しい殖蓮村が生まれた年でもあった。矢島昇が校長就任以来、奮闘した年月が、日本の教育体制の変革、赴任した小学校での業務、三村合併という行政面の変革等々と重なるようであり、改めて激務が続く生涯であったように感じた。
追記(2019/09/18):
伊勢崎市の東本町から「東本町の歴史」という地域史が発行されている。この冊子をめくっていると、板垣艶太の卒業証書が掲載されている。叔父から聞いた話では、板垣艶太は高山社で養蚕を学び養蚕の指導員・先生をしていたとの事である。殖蓮地区では板垣艶太と同様に養蚕の専門的な知識・学問を持った人物が全部で3名いたとの事であった。その卒業証書に「殖蓮尋常小学校校長矢島昇三郎」という校長名があった。多分、本記事で判明した矢島昇と同一人物と思われる。「矢島昇三郎」はより校長らしい響きにするための通称では無いかと思われる。ともかく、墓碑と卒業証書という二つの資料が出て来たて、その教え子から地域の指導者が出てきている事が明らかになった。
原ファイル名=「IOB_2019_YAJIMA_SYOZABUROU_卒業証書明治時代資料.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones
追記(2019/09/19):殖蓮の養蚕三有力者の名前を聞いたので、あちこち探した結果何とか出てきた。幸い、2008年のメモ書きに残っていた。このメモ書きは叔父の生前の聞き書きである。最早、確認も出来ない。当時のまま書くと、
「豊城の堀田文八、
下植木の板垣ツヤ太、
上植木の重田幾馬の三名であった。」と残っていた。
矢島昇の墓碑に面する道路は、日常的に通る道路であるが、その碑はいつも通り過ごしていた。たまたま、その墓碑がある墓域に入り、それをデジカメに納めて、超訳的に解読した。その結果、日本の片田舎としか思っていなかった我が古里も捨てた物じゃ無いと感じるようになった。今年は、文科省管轄の森友学園、加計学園と二つの学園の不祥事が大きな社会問題や政治問題になった。
国家や社会や家庭を担う善良・有能な人材をあまねく育成するには、一部の機関や組織だけでは不可能なのは自明な事だ。広大な教育システムに、一つの穴があるだけで、そのシステムはやがて崩壊に到るのではないか。その説明は蟻の一穴のたとえ話で十分だろう。
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2017年12月09日 伊勢崎(イセサキ) | ||
TAVE= | 4.9 | 毎正時のアメダス観測値(気温)の平均値 |
TMAX= | 10.1 | 毎正時のアメダス観測値(気温)の最大値 |
TMIN= | -0.4 | 毎正時のアメダス観測値(気温)の最小値 |
DIFF= | 10.5 | 毎正時のアメダス観測値(気温)の最大値と最小値の差 |
WMAX= | 4.5 | 毎正時のアメダス観測値(風速)の最大値 |
SUNS= | 9.3 | 毎正時のアメダス観測値(日射)の合計値 |
RAIN= | 0 | 毎正時のアメダス観測値(雨量)の合計値 |
1日の極値 | データ | 時刻 |
最低気温(℃) | -0.6 | 23:59 |
最高気温(℃) | 10.5 | 13:08 |
出典=気象庁 | 参照⇒ | AMEDASへのリンク |
最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) | 10.5(西北西) | 0:12 |
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