最初の片思い

2009/5/25

最初の片思い

片思いと恋愛感情は似ている所があるがどこか違っている。それは字の通りワンウウェイで

あるということなのだろう。どうも自分というのがある程度客観的に認識可能になって片思い

らしい感情が生じるようだ。その最初の片思いらしい感情が生まれたのが小学一年生の時

であった。自分はみすぼらしい百姓のせがれ。片思いの相手は高貴な家庭のお嬢さん。勝

手な想像と思いこみがそういう感情の元になったのかも知れない。たまたま、近くの席になっ

た女の子だっただけなのかも知れない。高貴な家庭のお嬢さんはそれに相応しいおぼっちゃ

んと仲良しでどうも百姓風情ではない。今思うと自分が百姓のせがれであるという事にかなり

コンプレックスを感じていただけなのかも知れない。しかし、このコンプレックスは人生の相当

期間つきまっとっていた。晴れて、世間の言う会社員という身分になったが、逆にすまじきも

のは宮仕えという気分から解放される事は余りなかった。俗に言う会社員とは雇われ人に過

ぎなかった。その点百姓は一国一城の主であった。思えば肩で風を切って得意になっている

ように見えても元を正せば雇われ人というのが今日の大方の事情なのではないだろうか。最

近、世襲の是非が話題に上るがなかなか難しい問題がつきまとう。いくら世襲と言っても適材

適所から大きくはずれれば生き残って行く可能性は狭まるのが社会の掟なのかも知れない。

最近ある人から、この本を読んで感銘したと五木寛之の「人間の覚悟」という本を頂いた。戦

後50年は躁の時代であったが、今や鬱の時代に入った。格差はいつの時代にもあるがそ

れが固定してしまうことが問題だと述べている。振り返ると色々なところに色々な格差があ

る。躁の時代の中流意識も一時期の幻想であったのか。ともかく差を認識する事は個を認識

する事でもある。レーニンが一個の電子といえども汲み尽くす事は出来ないと言ったという事

を何かの本で読んだように思う。確かに全く同じ性質を持つ電子も色々な現象を引き起こし

ている。思えばコンプレックスとは未分化のiPS細胞のようなもので色々なものを生み出す原

基なのかもしれない。