2010/2/17
成果主義
仕事の報酬の基準は何だろうかと考えることがある。肉体労働の場合はアウトプットがはっ
きり確認できる。従って、出来高払いの時は、報酬はアウトプット量X労働単価に比例するだ
ろう。時間給の場合は当然報酬は労働時間X労働時間単価ということになるだろう。給料をと
ろうとする労働者はどちらの支払い方式を選びたいと思うだろうか。能力があり意欲を持って
より多くの報酬を得たければ前者を選ぶだろう。しかし、多数の労働者を雇用していると、出
来高払いの労務管理は困難になるだろう。仕事によっては、雑に扱って報酬は多く払わざる
を得ないが、成果の質が劣ってしまう場合があろう。結局、長期的な雇用の場合、時間給を
基本として、アウトプットの質の面では賞与や手当で報いてきたと言うのが日本の労働慣習
であったようだ。ところが、景気の後退、需要の低迷等で企業の財務体質が弱くなり、人件費
コストを削減するために打ち出されたのが成果主義という労務政策であったのではないか。
肉体労働の場合は成果主義を掲げても異論は無いであろう。給料というインプットに比例し
たアウトプットがあるのは明らかだ。しかし、現在は間接労働、知的労働の時代になってしま
っている。労働のアウトプットがどこに、どのように出るのかさえ確定するのが困難な時代に
なっている。成果主義のお題目は目標を立てて、その目標の達成度により、人事評価をする
ことにあるようだ。結果として、長期的課題とか、困難な課題は目標から外されて、上司が評
価するであろう課題で、部下が達成できそうな課題だけが目標になりやすい傾向が生じてし
まった事例が多いようだ。ともかく、専門化して、部下の仕事を上司が適正に判断する事も難
しいのが実状である。上司が厳しく成果主義を徹底すれば部下は離反する。結局、なあな
あ、まあまあという煮え切らない状況となる。高度成長の時代は仕事は山ほどあった。残業、
休日出勤は当たり前であった。その中には無休の仕事もあった。手当を翌月に繰り越して
も、到底消化できる量ではなかったと思う人も多いのではなかったか。そのようにがむしゃら
に働いたのはどういう動機であったろうかと思う。その基本には仕事に対する愛着感と責任
感があったのではないか。やはり、仕事には大きな波がある、そのような時に出勤すれば、
いつか報いられることがあるかもしれないという期待感もあったかもしれない。仕事が無く、
自宅待機という苦しい時期もあった。成果主義も適正に運用されれば適正な成果が得られる
であろう。そのためには、労使が時間を掛けてその制度を企業文化になるまで磨き上げる必
要があるのだろう。