クレペリンテスト

2010/2/16

クレペリンテスト

人間色々なテストを受ける。評価を受けるのもそのテストを通してなされる場合が多い。従っ

て、評価されたければそのテストを受容しなければならない。そんな事を、幼少時代から延々

と老後まで続けるとテスト絶対感が完全に身に付いてしまう。ともかく、テストはテストの結果

がテストにかけたコスト・時間以下で収まるというテスト実施者側の都合が支配する。幼少の

頃、ひよこの雄と雌を選別する仕事がいい金になると聞いた事がある。養鶏用に生まれたひ

よこは雄であっても雌であってもどちらが幸せか分からない。雄雌の選別は幼鶏業者の都合

なのである。従って、現代社会でテストを受けようとする者も先刻実施者の低意を見抜く必要

があるのかもしれない。テストなど手段に過ぎないと。テストが必要悪になってしまう。かつ

て、小中学校の頃の市販の試験用紙の裏などに試験の目的などが印刷されていた事があっ

た。時間が残っている時はこれを読んでチェックした記憶がある。実際に試験問題を作り、実

施する人間は合格者を使う側でもなく、お雇いの人間がそれなりの意気込みでつくるのかも

しれないが、ときにはうんざりする場合もあるのではないかと思う。クレペリンテストという名前

を思い出した。多分人生の一時期に受けさせられたのではないか。はっきりした記憶は無

い。知能検査といってIQ値がもてはやされた時期もあったと思う。テスト偏重と市販テスト業

者との癒着等の反省から市販テストは禁止されたと記憶しているが、現在はどうなっている

のだろうか。ともかく、テストというとペーパーテストを思い浮かべてしまうが、実技、論文、創

作等ある人間の能力を評価する方法は無限にある。ペーパーテストの序列だけで人生の大

半が決まってしまうような社会には未来が無いのではないか。教育が資格という階段の登り

口である事に異論はないであろう。一度の人生において、誰にでも、希望するどのような職種

にも就ける機会を保証するような多様な資格制度が必要であろう。それも、鵜飼いの鵜が吐

き出した獲物を一回で評価するようでは当たりはずれが大きい。弁護士、医師等のあらゆる

資格は進級制にする。看護師から医師への職業経路も作る。そうすれば意欲がある人材は

看護師という資格から医師を目指すことが出来る。要は資格は絶対的ではない。資格者団

体は互いに棲み分けしているが、もはやそれだけでは社会は硬直化してしまうのではない

か。当然、資格審査は定期的・公的・公正に行う。各級の滞在上限期間も定める。医師不足

も弁護士過剰も制度設計が現状に合っていないのが一因であろう。人口が減少に向かう長

寿社会において、生涯学習・人材の流動性の確保とマルチタレント化は不可欠であろう。例

えば、医療過誤事件においては一級弁護士より、四級弁護士兼四級医師の方が良い仕事

ができるのではないか。自分の人生に意義のあるテストならば前向きに立ち向かうだろう。

専門家万能の時代になってしまったが、専門家がカバーできない部分に死角が出来てしま

う。裁判員制度はそういう制度的なほころびのつぎあての意味があるだろう。本来ならば、民

事事件を優先して実施すべきであったのではないか。裁判の究極的目的は事件の発生防止

ではなかろうか。民事事件は社会人の常識力が最も発揮できるだろう。当然、民事事件が減

れば刑事事件も減るだろう。ちなみに平成19年の新受訴訟件数は民事2256千件、刑事

1342千件とある。http://www.stat.go.jp/data/nenkan/zuhyou/y2512000.xls