方丈記通読:いとしきもの

2010/3/20

方丈記通読

切り読み&随読を試みた。テキストは青空文庫を利用させて頂いた。先ず、段落らしいところ

でテキストを切り出してエディターに乗せて読む。文庫本の小さな文字を読むより楽である。メ

モ書きを貼り付ける。結果として文書のサイズが大きくなった。ブログ編集画面上の操作が

極端に重くなった。サーバーへのアクセス時間も我慢できない位かかる。ともかく、細分化し

ては見通しが悪い。しかし、きままに分割して、切り読みで何とか一通り目を通したが...。

この統合版は暇なときに気ままな読み直しに使えれば良いと思う。全文を一度WZエディター

にコピー(42Kあった)して、更にそれをBLOGエディターに貼り付けたらかなり軽くなった。リ

ッチテキストとしてメタボ成分をため込んでいたのを切り捨てたのが一因だろうか。

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方丈記

鴨長明

方丈記切読11

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

かつてアイデアプロセッサーというソフトがあった。文章の作成の補助をする。今日では、ワ

ープロもその機能を備えているようだ。長明さんは方丈記を書き始めるときどのような構想を

練ったのか。適当に読む順序を変えているが、冒頭には力を入れていると思う。多分、読者

を想定し、その読者の心情に沿う表現を選んでいるだろう。時の流れを振り返ると、ビデオの

早送りに近くなってしまう。見たい場面にはスローに切り替える。かつて高校の世界史の先生

が、カエサルの『VENI, VIDI, VICI(来た,見た,勝った)』という名言を教えてくれたのを思い

出した。伝えたいことを最も短く、明確に表現した例としてこの言葉を教えてくれたのだった。

授業の合間の一服という感じであった。しかし、これでは作品にならない。方丈記の冒頭は

無常観を表していると学んだような記憶があるが果たしてそうなのか。人や社会や自然の変

化を長年冷静・客観的に観察していないとこういう事は書けないと思う。ある現象と他の現象

の類似している部分を重ね合わせている。一種の相関性、類推性という視点で現象を捉えて

いる。個々の事象は変転きわまりないが、それを貫く変わらない何ものかがある。長明さん

はそれを掴もうとしている様でもある。変化の中に身を任せていれば変化に気付かないので

ある。自分の視点が定まった所に変化が観測できるわけだ。無常観に流されていれば、方

丈記等書く気になれないのではないか。無常観を突き抜けるとその先に、そういう必然性か

ら抜け出せない平等観も感じるのである。俺もお前も所詮同じ運命の下にある。自分は長生

きの最大の楽しみは物事の行く末を自分の目で確認できる事にあると思っている。自分の為

に書いているようだが、時にはそれが自分以外の人へのメッセージになっているようでもあ

る。当時の人が、方丈記を読めば、それとなく書かれた事が、ホントな事だとピントくる事が

書かれているかもしれない。

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方丈記切読12

「およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。』」

年を経て色々な事変に遭遇する。しかし、それを記録に残す人は極少ない。更に記録されて

も、長期間保存される事は更に少ない。長明さんの方丈記の記録は貴重であり、歴史資料と

して利用されることもあるようだ。ともかく、大都会の大火災はその損害の及ぶ範囲は際限

がない。それは、承知のうえ都市生活が成り立っている。物が燃える条件を理科の授業で習

った。小さな紙片が燃えるのも都市が燃えるのも原理は同じである。燃えにくい生木も条件

により簡単に燃えてしまう。火が燃え広がる状況では、一種の正帰還状態になっている。燃

えた火で、水分は蒸発して、ある部分が強烈に燃えていれば、周囲も発火温度になり、火が

飛び付くき、可燃物は燃え出す。これが、更なる火力を発揮する。一度、延焼を始めるとそれ

を止める事は難しくなる。合理的に考えれば、火事の心配が多い一等地に家を建てるのは

納得できないだろう。「いにし安元三年四月廿八日かとよ、」は長明さんの実体験であったの

か。ともかく40才代までの体験という事で世の不条理を意識したのであろう。「病人を宿せる

かりやより出で來けるとなむ。」と出火元も書いているのはさすが。ところで、「病人を宿せる

かりや」とは何か。疫病か何かで病人を隔離していた仮小屋なのか。一種の野戦病院を連

想してしまう。宿すとはそこで、衣食住をするので、炊事で火も使ったろう。複数の何人かの

関係者が利用する仮小屋ならば火もとの管理が不徹底になり火災の原因としては納得でき

る。当時、都市の中にこういう施設があったというのも都市機能の点で興味をそそる。

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方丈記切読13

「また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けたはしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。』」

竜巻、ダウンバーストのことであろう。「つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはあ

る。たゞごとにあらず。」、「かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。」と、特別に大

きな竜巻であったようだ。「さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。」何か、悪いことの予兆と

思ったのか。さとしとは何かを警告していることの意味であろう。ところで「さるべき物」とは何

か。何か具体的なものを暗示しているのか。地獄の業火・業風は自然現象を更に強めたフィ

クションだろうが、そのフィクション以上と感じた。同じ様な、フィクションを上回る自体が現在

でも多発している。当時は、竜巻の原因は理解できず、何か人知で想像できない存在がさる

べき物という事だったのか。

**************************************方丈記切読14

「又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京に(八字イ無)うつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。」

予想外の遷都で、これもいつでも巡り合わせできない事象だろう。天皇の一言で、大臣公卿

は率先して従う。役人の気概の無さは今も昔も変わらないのか。移れずに、残されたものは

旧都の落ちぶれる姿と自分の姿を重ねる。かつて、首都移転論が盛んであった時があった。

十年に一度位で首都を移せばスリムで機能的な国が生まれるのではないか。地方分権など

余り意味がなくなるかも知れない。方丈首都。全国一巡で数百年かかるが、内需を喚起し

て、分散処理が徹底する。戦争、自然災害等のリスク対策でも、都市機能分散は有効だ。思

うに、革新的な首都移転が千年も前に行われ事を知るだけでも意義があるだろう。

**************************************方丈記切読18

その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠布衣なるべきはひたゝれを着たり。都のてふりたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、ことごとく元のやうにも作らず。ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代には、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。これ民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。』

切り読みなので、前後のつながりに苦労する。新都建設現場の様子。聞き書きのようだ。「元

より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることを

なげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠布衣なるべきはひたゝれを着

たり。」今日だったら、どうだろうか。地元は大歓迎かもしれないが、中央は居心地が良いの

で、そこに居座るのであろうか。思うに、日本の首都もあちこち転々としていた。人身一新に

もなるだろう。当時の遷都実施の理由は何だったのか。「なかなか やう(様) かは(変)り

て、いう(謂う) なる かた(方) も 侍りき。」意味は?伝聞でぼかした表現か。「はこびくだ

す家」とは。家を解体して運んだのか。リユースハウス。「これは世の亂るゝ瑞相とか聞きお

けるもしるく」瑞相とは吉兆。世が乱れるのは瑞相なのか。逆形容の皮肉か批判か。結局、

その話をした某氏は居心地は悪いが建設中の新都に戻ったのか。昔は、民の竈の煙を見

て、国を治めた。御殿も茅葺きの質素な物だった。今の世はどうだろうか。長明さんの視点

は現在にも通用するようだ。

**************************************方丈記切読15

又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、544-14]ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひなに事につけても、みなもとは田舍をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。念じわびつゝ、さまざまの寳もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目みたつる人もなし。たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重くす。乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。さきの年かくの如くからくして暮れぬ。明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまさへえやみうちそひて、まさるやうにあとかたなし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うちき、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。しづ、山がつも、力つきて、薪にさへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、一人がもち出でたるあたひ、猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、につき、しろがねこがねのはくなど所々につきて見ゆる木のわれあひまじれり。これを尋ぬればすべき方なきものゝ、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心うきわざをなむ見侍りし。』

天候不順による飢饉の悲惨さを描いている。当然、それに対処する社会制度の未発達も飢

饉の一因だろう。「久しくなりてたしかにも覺えず」と述べているが、本当は鮮明に覚えている

かのようだ。以下に続く記述を読めば分かる。「秋かり 冬收むる ぞ め きは なし」⇒「秋

刈り 冬收むる ぞ 目 際 無し」の事か?秋に収穫して、冬にお上に納入する、目処が立

たない。お上の取り立てから逃れるために逃散してしまう様を描いているようだ。いかさまの

おまじない等も流行る。「京のならひなに事につけても、みなもとは田舍をこそたのめるに、

絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。」京都の生活は何事も、田舎

の生産物に頼っているのだが、飢饉で京まで上ってくるものがないので、???。「さのみ 

や は みさをも 作りあへむ。」「みさを作る」=平気な様子をする。要するに、飢饉で食料

の流れが途絶してしまい平気な顔などあえてできないだろう。飢饉の時は財宝など目にくれ

るゆとりもない。食料は高騰してしまう。乞食が多くなる。体力も衰えよろよろになる。それか

ら餓死者が出てくる。その餓死者もどんどん増える。埋葬されずにのたれ死にであり、腐乱も

すすみ、死臭が漂う。中には、住む家を壊して市場で売って飯の足しにするが、食料一日分

の金にもならない。さらに、寺を壊して持ち出した木材等も混じっている。なぜかと聞けば古

寺の仏や仏具も壊して、その一部が市に出ている。これほど事態は深刻だった。そういう様

子を私(長明さん)は見てきたのです。仏門に入った長明さんも成す術がなっかたようだ。とも

かく、こういう部分は義務教育の社会の授業で教えて欲しい。勿論、原文で。辞書を引いてで

も、子供達は読むであろう。そうして、食料の重要性を肌で知るであろう。教育はきれい事で

はない。日本人の大多数が満腹感を味わったのは、この四半世紀に過ぎないのではない

か。

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方丈記切読16
                                                                                       
「又あはれなること侍りき。さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。いはむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをくはへていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道をや。近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり。』」
いかに死すべきか。ここにその例がある。深い思いのある者は相手に先立って死ぬ。要する
に手にした食料を相手に譲るのである。自分の命を相手に託すという事であろう。父子の場
合は子を残して親が先に死ぬ。これは生物界の掟であろうか。極限の倫理。餓死者を成仏さ
せるため阿字を額に書いて供養した仁和寺慈尊院の大藏卿隆曉法印という高僧もいたよう
だ。せめてものなぐさめ。餓死者数が具体的数字で調べられているのにも興味がある。広い
範囲と期間をとればその数は際限ないとまで言っている。こういう飢饉が何度かあったと聞い
ていると書いているが、実際はどんな様子だったのか。ともかく方丈記は単なる随筆ではな
いであろ。鴨長明覚え書きでもあるだろう。
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方丈記切読17
                                                                                       
「また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみにはたけきものも耻を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。むかし齊衡のころかとよ。おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。』」

「おほなゐ(地震) ふる(振る)」。古語で死語になっている。電子辞書で調べた。最初の三文

字入れて探す。これをエディターに取り込む。ともかく、古語も使われて生きてくる。誰もが経

験しない大地震の様子が記録されている。前半部は地震時の大域的な状況を記述してい

る。専門家はこの記録から大体の震度を推定できるだろう。「地のふるひ家のやぶるゝ音、

いかづちにことならず。」とぐらぐらと大きな音を立ててゆれているのでその大きさが伝わって

くる。「おそれの中に おそるべかりけるは、たゞ地震なりける と ぞ 覺え侍りし。」意味が

良く分からない。ここでは「地震」という語を使っている。どんな恐怖であろうと、地震ほど恐ろ

しいものはないと実感したという事だろうか。身近では、遊んでいる子供が崩れた物に埋まっ

てしまい父母がおろおろしている姿も書かれている。余震が終息して行く様子もかなり正確に

記されている。伝えによる昔の地震の記憶も残っているが今回の大地震には到底及ばない

と述べている。大地震も時が経てしまうとそれを言い伝える人もいなくなってしまう。ともかく、

長明さんは自分が体験した大地震を記録に残した。四大種とは仏教で言う地水火風の事。

水火風の異変は日常的に起こるが地変(大地震)は希である。ほぼ八百年前の地震であり、

当時と比較すれば今日の地震の被害の可能性は格段に高くなっている。鉄筋建築も百年単

位で考えると確実に老朽化が進み耐震力も低下するだろう。人口も国力も低減した時に大

地震が直撃した場合を考えると長明さんでなくともこの世のはかなさを感じてしまうであろう。

地震による廃墟から復興できず、廃墟のままとなる姿には耐えられない。
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方丈記切読1

多分、高校の古文で方丈記を習ったと思う。しかし、年齢的にその内容をじっくり味わうこと

は無かったと思う。いつか読んで見たいと思っていた。随筆というジャンルだが、一気に通読

するのも大変だ。青空文庫からテキストを頂いて、気に入った部分から読んで見たい。細か

な、文庫本をよむより、カットアンドペーストでエディターに取り込んで読んだ方が楽なので、

読み方の実験でもある。随読・切り読みといえるかも知れない。適当な所から気ままに。

「すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさまかくのごとし。いはむや所により、身のほどにしたがひて、心をなやますこと、あげてかぞふべからず。もしおのづから身かずならずして、權門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、大にたのしぶにあたはず。なげきある時も聲をあげて泣くことなし。進退やすからず、たちゐにつけて恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。」

どうも、この世は昔から住み良いものではなかったようだ。身分に従い悩み事が数知れない

のは今日も変わっていない。長明さんが方丈の庵を結んだのも隠遁のためであったのか。

人界と近からず遠からずという理想的環境であったかもしれない。「深く悦ぶ」のと「大にたの

しぶ」とは別であるとの指摘は納得する。長明さんは世の中の煩わしさから身を引いて残り

少ない人生を楽しもうとしているようだ。「もしおのづから身かずならずして、」とはどういう意

味なのか。辞書によるととるに足らない人物の意味に通じる。とるに足らない人物が権威を

かさにきてはしゃいでいるのは見苦しいと確かに長明さん眼光の鋭さを感じる。思うに「進退

やすからず」という人も数知れぬのかもしれない。今も昔も変わっていない。

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方丈記切読8

「もし貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を耻ぢてへつらひつゝ出で入る妻子、僮僕のうらやめるさまを見るにも、富める家のひとのないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて時としてやすからず。もしせばき地に居れば、近く炎上する時、その害をのがるゝことなし。もし邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなれがたし。いきほひあるものは貪欲ふかく、ひとり身なるものは人にかろしめらる。寶あればおそれ多く、貧しければなげき切なり。人を頼めば身他のやつことなり、人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。またしたがはねば狂へるに似たり。いづれの所をしめ、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし玉ゆらも心をなぐさむべき。』」

長明さんの言うとおりである。これが長明さんの隠棲の動機かも知れない。しかし、これでも

長明さんの方丈記執筆の動機には迫れないように感じる。やはり、物を書くには誰かに向け

たメッセージがあるのだろう。

**************************************方丈記随読2

誰しも、年齢を重ねると来し方行く末を考える。長明さんの自画像はこの部分か。祖先の大

きな家に住んだが、三十才台でその十分の一の家をかまえた。妻子がないとは新発見であ

った。しかし、これは少子化社会の現実の一面をも語っているようで胸にこたえる。「すべて

あらぬ世を念じ過ぐしつゝ、」とは若かりし時には、大志を抱いていたのか。「おのづから短き

運をさとりぬ」とは世を捨てた動機か。「家をいで世をそむけり」とは。ともかく、このような疑

問は既に研究され解明されていると思う。

「我が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひにあととむることを得ずして、三十餘にして、更に我が心と一の庵をむすぶ。これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにおよばず。わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車やどりとせり。雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原近ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる。」

ともかく、公職や定職から去れば、物事はより客観的にみる事が出来る。しかし、その時は

既に現実的な影響力は失っている。長明さんは方丈記を残した事により、名前を残した。当

時は、こういう生き方が普通だったのか。社会保障という制度の無い時代である。余力を残

して老後を楽しむのも一つの生き方かもしれない。余力がなければ随筆どころではない。庵

を結ぶのは庶民以上の余力があったからできたのだろうか。

**************************************方丈記随読4A

「こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、老いたるかひこのまゆをいとなむがごとし。これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだもおよばず。とかくいふ程に、よはひは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。その家のありさまよのつねにも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。土居をくみ、うちおほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へうつさむがためなり。そのあらため造るとき、いくばくのわづらひかある。積むところわづかに二輌なり。車の力をむくゆるほかは、更に他の用途いらず。」

六十という余命わずかになって作った方丈(四畳半)の家。人生半ばの家の大きさの百分の

一以下であるという。盛年時には相当大きな家に住んでいたようだ。高さも七尺。地業も簡

便。インターネットにその復元図があり参考になった。瓦葺きの屋根では強度が足らないよう

に思われるが。「その家のありさまよのつねにも似ず」とあるので、相当コンパクトな家のよう

だ。さらに、それは気分により直ぐに余所に移動しやすいような組立式。「積むところわづか

に二輌なり。」とは何の意味かよくわからなかったが、車二台で引っ越しができる程度の部材

でできあがっている組立式住居のようだ。トレーラーはウスの前身だ。当時としては斬新なア

イデアであったようにも見える。要するに老境の住居は簡素で雨露がしのげれば十分だと割

り切ったかのようだ。「こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあ

り。」には長明さんの死生観・人生観が窺われる。

**************************************方丈記随読4B

「いま日野山の奧にあとをかくして後、南にかりの日がくしをさし出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣に添へて、阿彌陀の畫像を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上に、ちひさき棚をかまへて、黒き皮籠三四合を置く。すなはち和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。傍にこと、琵琶、おのおの一張をたつ。いはゆるをりごと、つき琵琶これなり。東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみを敷きて夜の床とす。東の垣に窓をあけて、こゝにふづくゑを出せり。枕の方にすびつあり。これを柴折りくぶるよすがとす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。すなはちもろもろの藥草をうゑたり。かりの庵のありさまかくのごとし。」

方丈の付属設備、調度品、用具、日用品、趣味の用具などを記している。住居兼書斎兼寝

室等。ビジネスホテルの一室の様でもあり一通りの生活はこれで間に合ったのかもしれな

い。とこに敷いたつかなみとは何か。ネットの古典通解辞典を参照:つかなみ (名)「束並み」

の義。わらを畳ほどの広さに編んだ敷物。わらぐみ。方丈記「つかなみを敷きて夜の床とす」

ずばり。感謝。この一節は、高校の古文でならったかすかな記憶がある。世を捨てても神仏

は捨て切れぬ。ほどほどの孤独を思う。孤独も紛らわすものがあれば、捨てるほどでもない

のかも知れない。

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方丈記随読4C

「その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩をたゝみて水をためたり。林軒近ければ、つま木を拾ふにともしからず。名を外山といふ。まさきのかづらあとをうづめり。谷しげゝれど、にしは晴れたり。觀念のたよりなきにしもあらず。春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。もしねんぶつものうく、どきやうまめならざる時は、みづから休み、みづからをこたるにさまたぐる人もなく、また耻づべき友もなし。殊更に無言をせざれども、ひとり居ればくごふををさめつべし。必ず禁戒をまもるとしもなけれども、境界なければ何につけてか破らむ。もしあとの白波に身をよするあしたには、岡のやに行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならすゆふべには、潯陽の江をおもひやりて、源都督(經信)のながれをならふ。もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝はこれつたなけれども、人の耳を悦ばしめむとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。』」

「觀念のたよりなきにしもあらず。」頼りなく感じないと言えば嘘になりかもしれないが、気にす

るほどでもないだろう。「夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。」カッコウの鳴

き声にも人生のはかなさを感じる。念仏を唱えたり、読経するのも気の向くまま。楽器を弾く

のも人に聞かせるのではなく、自分の感興に従うだけだ。色々な固有名詞が出てくる。教養

も単身生活の友になるのだろう。滿沙彌が風情:沙弥満誓「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ

漕ぎ行く船の跡の白波」。こういう前提があって描写が成り立つのか。ともかく、追求すれば

際限がない。自分の視線が止まった所だけでもよかろう。風流な生活のようだが、食生活は

どんなようすだったのか。

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方丈記切読5

長明さん景観を語る

「また麓に、一つの柴の庵あり。すなはちこの山もりが居る所なり。かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく。かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれおなじ。あるはつばなをぬき、いはなしをとる(りイ)。またぬかごをもり、芹をつむ。或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、みねのかせきの近くなれたるにつけても、世にとほざかる程を知る。或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、今ま(すイ)でに五とせを經たり。」

長明さん60才、還暦の年だ。山里の野外生活を描いている。山守がいる木小屋もあり、少

年達もいるので一緒に遊んだようだ。世間と完全に交流を絶った訳でもない。遊びつつ、山

で食料も採ってくる。この場面は一種の回想のようでもある。一々解釈しても面白くない。長

明さんの目を通して当時の長明さんの生活を追体験できればそれで良いのでは。山の頂上

は地主がいないので見晴らしの良い景勝地だが勝手にふるまえる。景色の展望だけでなく

人生の展望もある。「或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。」には老境の一人住まい

のわびしさをつい感じてしまう。あからさまとはほんの一時。仮の庵で一時のつもりで、ここに

住み始めたがもう五年も経ってしまった。こういう生活を長明さんも大いに気に入ったようだ。

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方丈記切読6

「假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。おのづから事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やごとなき人の、かくれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくのごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。すべて世の人の、すみかを作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子眷屬のために作り、或は親昵朋友のために作る。或は主君、師匠および財寳、馬牛のためにさへこれをつくる。我今、身のためにむすべり、人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべきやつこもなし。たとひ廣く作れりとも、誰をかやどし、誰をかすゑむ。』」

新築した仮の庵も古屋になった。ようやく、仮住まいにも慣れて、それが自分の生活になっ

た。都は人が多いだけ、変化も激しい。長明さんの生活は今日のスローライフそのものに見

える。少しは、やせ我慢、負け惜しみの感情も無くはないであろが。これもネットの古典通解

辞典を参照:がうなゴウナ (名)やどかり。寄居蟹。寄居虫。枕草子、十二「日ごろはがうなの

やうに人の家に尻をさし入れてなむさぶらふ」方丈記「がうなはちひさき貝を好む」 (Google

検索: がうな 古語 がうなはちひさき貝をこのむ に一致する日本語のページ 約 1,050 件中

1 - 20 件目 (0.34 秒) )。家を造る理由について、自分の身の丈に合った、ヤドカリの背中の

貝殻と同じで良いだろうと割り切った。「身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづ

かなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。」と達観したのだろう。確かに人の目を意識

してしまうとそこに、様々な見栄や葛藤が生じてしまう。逆に、長明さんは、どうだい都の衆

よ、おれの生活はうらやましくないかねと見栄をはっているようにも感じないでもない。

**************************************方丈記随読3

「それ 人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人の やつこ たるものは 賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。更には ごく み あはれぶといへども、やすく閑なるをば ねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もし なすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと 身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふ とても たびたび過さず、ものうし とても 心をうごかすことなし。いかに いはむや、常にありき、常に働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。』」

人付き合い、友人論を述べているようだ。情があって、率直であるだけでは、わずらわしいだ

けで、愛せない。それより、友人は豊で丁寧だが気楽につき合えた方が良い。だが、気楽に

楽器や花鳥風月の自然を友とするに及ばない。あえて、乗り物等も気にしない。身体の調子

に合わせて歩き、手足をこまめにつかえば、養生にもなる。他人の力を借りずに、増して人

に迷惑もかけずに自力で生活するのが最高ではないか。自己流に読んでいるかも知れな

い。最近、自分も長明さんと同じ様な心境になってきたようにも思う。ちょっと出かけるとき

は、子供が通学に使った古自転車を使う。ちょっと、気分に応じて遠回りをする。面白い被写

体があるとデジカメでパチ。ここで、富めるとはどんな情景か。貧ならずという感じか。ともか

く、貧なる友には何かと気を使うだろう。高校時代に貧交行を学んだと思う。貧は富への上昇

のバネか。社会が階層化されてしまうと、人間のつき合いも何かと同一階層のつき合いが多

くなってしまうだろう。長明さんはどんな貧を見ていたのか。ところで、「人の やつこ たるも

のは 賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。」とはどういう意味か。長明さんの考え

か。しもべたちは信賞必罰に処し、恩賞の厚い者は重用すべきという事か。人とはしもべが

つかえる上位の人と解釈すれば、お上に使えるしもべたちは、賞罰も誰にでもわかるよう顕

著に行うことを歓迎し、恩賞も手厚く施したいものだと述べているのか。長明さんは自分を人

になぞらえているのかやつこになぞらえているのか。ともかく、賞罰・恩賞は人生の最後まで

つきまとうのは、昔も今も変わりがないようだ。

**************************************方丈記切読7

「衣食のたぐひまたおなじ。藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。野邊のつばな、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。
大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。』」

衣食の事を自分の昔と今を比較している。それなのに、「樂しく富める人に對していふにはあ

らず、」と書いている。何か未練がありそうではある。捨てた物、去った事には確かに未練が

ある。でも、そういう有形・無形の財産があることも大切なのではないかと思う。ところで、「生

涯の望は、をりをりの美景にのこれり。」とはどういう事か。素晴らしい風景を見ると自分の生

涯を一望するかのようだと感じたということか。野望の望か展望の望か。やはり、自然界では

なく人界のようでもある。これを、重ねて観ているようでもある。

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方丈記切読9

「それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥との分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住まずしてたれかさとらむ。』そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。』」

バラモン教には人生の四住期という考えがあるようだ。その第三が臨終期ではなく林住期。

馬鹿なATOK?ともかく隠棲の動機や効用も時代、国等により様々なようだ。今日、日本で

隠棲すれば死んだも同然になってしまうのではないか。実力を持ちながら惜しまれて引退に

は拍手を送りたい。働き盛りに数年間充電の為の隠棲。理想だ。ワークシェアにもなるので

は。仏陀の出家の動機は深い。覚りも深い。結局、仏陀はその悟りを広めるためにまた人界

に戻ってきた。四住期の最後が遊行期。WIKIPEDIAによると一定の住所をもたず乞食遊行

する時期とある。確かに、興味ある生き方だ。そういえば、終戦直後は乞食が家を回って来

たのを覚えている。腹一杯食っている訳ではないが祖母等は一握りの米を恵んでやった。確

かに執着心を絶てば怖い物も無くなるのだろう。今日はまわりは、怖い物ばかり。

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方丈記切読10

「しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか、その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。
「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」。」

「月かげは   入る山の端も   つらかりき    たえぬひかりを   みるよしもがな」。月の姿も、山の

端にかかって、姿を消してしまうのもつらかった事よ。いつまでも、絶えることのない月影を見

られればよいのだが。それが、かなわぬというのが人生か。我が人生を振り返ったのか。方

丈記のあとがき。道を行うとは仏の道、仏道の修業の意味か。どうも、世間の事を気にして

いるようでもある。ともかく、方丈記を書き上げて、その達成感は十分あったように思われ

る。ところで長明さんこの後はどうしたのだろうか。鴨長明が亡くなる四年前に方丈記が成っ

た。以下のWIKIPEDIAの記事は参考になる。桑門蓮胤とは仏門に入った長明さん自身の事

だと分かった。

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以下WIKIPEDIAから引用(最終更新 2010年2月9日 (火) 14:39 ):鴨 長明(かもの ちょうめい、1155年(久寿2年) - 1216年7月26日(建保4年閏6月10日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人、随筆家である。俗名はかものながあきら。京都の生まれ。

賀茂御祖神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれた。俊恵の門下に学び、歌人としても活躍した。望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の地位につくことが叶わず、神職としての出世の道を閉ざされた。後に出家して蓮胤(れんいん)を名乗ったが、一般には俗名を音読みした鴨長明(ちょうめい)として知られている。

出家の後、1212年に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つとして名高い。他に同時期に書かれた歌論書の『無名抄』、説話の『発心集』(1216年以前)、歌集として『鴨長明集』(養和元年 1181年)といった作品がある。
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底本:「國文大觀 日記草子部」明文社
   1906(明治39)年1月30日初版発行
   1909(明治42)年10月12日再版発行
※このファイルは、日本文学等テキストファイル(

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●表記について

このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。
この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。

「穀」の「禾」に代えて「釆」     544-14 

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/bungaku.htm)で公開されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、「國文大觀 日記草子部」板倉屋書房、1903(明治36)年10月27日発行を使用しました。
※『方丈記』の本文としては、流布本系である。
※割り注を()に入れました。
※「現在通行字体の〈し〉」「志に由来する変体仮名」ともに、「し」で入力しました。
※監修者、編纂者の没年は以下の通りです。
監修者 本居豊穎 (1913(大正2)年2月15日没)
同   木村正辭 (1913(大正2)年4月10日没)
同   小杉榲邨 (1910(明治43)年3月30日没)
同   井上頼圀 (1914(大正3)年7月3日没)
同  故落合直文 (1903(明治36)年12月16日没)
編纂者 丸岡 桂 (1919(大正8)年2月12日没)
同   松下大三郎(1935(昭和10)年5月2日没)
松下以外の没年月日は講談社学術文庫『大日本人名辞書』による。
松下の没年月日は徳田正信『近代文法図説』(明治書院)による。
編纂者等の著作権は消失している。
入力:岡島昭浩
校正:小林繁雄
2004年6月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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