挽歌:いとしきもの

2010/3/30

挽歌

今あらば君が片頬(かたほ)も染めぬべく山荘の炉の火の燃ゆる時

昭和萬葉集3巻。遺詠と挽歌、与謝野寛の死という区分にあった短歌である。歌人与謝野晶

子の歌である。君死に給うことなかれ等有名な歌は高校で学んだ記憶がある。第三巻には

昭和十年前後の歌が載っている。個々の歌には歌を詠んだ人の心情が明瞭に残り、作者名

を付記する気持ちになれない歌が多い。冒頭の歌はなぜか締め付けられるような心情から

解き放たれたような安心感を感じた。昭和十年代は丁度、父母の青年期と重なる。昭和萬葉

集を手にしたのは父母と自分の青年期を重ねてみようとしていたのかも知れない。ざっと、歌

を拾い読みすると迫り来る戦争という暗い気分が支配しているのを最初に感じてしまう。戦争

が一種の社会病理現象のように思えてしまう。東北地方の冷害、貧困、失業等々今日も同じ

事を続けているようでもある。しかし、最近は戦前の昭和にも明るい物、評価できる物、評価

すべき事があるのではないかと思う。そんな中で、冒頭の与謝野晶子の歌は亡き夫の事を

詠んだ歌なのだろが、不思議と暗さを感じずに、むしろほんのりとした明るさと暖かさを感じ

る。こういう挽歌は学校では教えないのであろうが、読む人の心に響くであろう。山荘の炉の

火の燃ゆる時は現在の事なのか。もはやかなわぬ未来の事か。暖炉の火の明かりは君の

片頬(かたほ)をゆらゆらと赤くそめてくれるだろう。今あなたがそこにいてくれれば。実は山

荘の炉の火の燃ゆる時はもう無いと知りつつ、今あなたがそこにいてくれれば、暖炉の火の

明かりは君の片頬(かたほ)をゆらゆらと赤くそめてくれるだろう、そうあって欲しいという心情

を歌ったのであろう。染めるとは動詞であるが、何が主語なのか漠然としている。むしろ、論

理や文法を乗り越えなければ不可能な表現もあるのかも知れない。君が片頬(かたほ)も染

めぬべくとは意味が深いように感じる。今あなたがいれば、山荘の炉で火を燃やして、あなた

の片頬(かたほ)をゆらゆらと赤くそめてやりたいともとれる。やはり、詮索より観賞が先なの

であろう。大学生の時、与謝野晶子の旧姓は鳳というんだと講義の合間の雑談で先生から

聞いた事を思い出した。鳳・テブナンの法則の説明の時であったと思う。実社会に出て、トラ

ンジスターの等価回路の計算をする時にお世話になった法則でもあった。調べてみると、日

本で鳳・テブナンの法則を証明したのが鳳秀太郎(東京大学工学部教授で与謝野晶子の実

兄)であるとの事である。