ぼけの花:いとしきもの

2010/3/31

ぼけの花

乙女子(おとめご)の唇に似たるぼけの花春の岡べに二つ三つ咲く

昭和萬葉集3巻。四季の移ろい 春の花々区分にあった短歌である。パラパラとページをめく

っていると西田幾多郎という人名が目に飛び込んできた。そうして、先ず思い出したのが善

の研究という書名。高校の時であったか、口角泡を飛ばしこの書物を語った先生がいた。

『善の研究』が出版されたのが1911年であり、既に当時でも半世紀も前の事であった。とも

かく、難解というより、何となく寄りつきたくない雰囲気を感じた学者であり、書物であった。少

し読みかじった記憶はあるが、その効用はあったのだろうかと思う。しかし、若いときは色々

難解な事物にチャレンジするのもトレーニングとしては良いのかも知れない。哲学という言葉

も人それぞれで、それこそ、そのスペクトル幅が広い。自分としては哲学とはあらゆる学問の

基礎と捉えていたのであろう。従って、実際の学問を合理的に理解できない哲学には余り興

味を覚えなかった。学問というより寧ろ科学と言った方が良いかもしれない。科学も結局、言

葉というシンボルに頼っている部分がある。しかし、そのシンボルを使わない限り理解できな

い対象がある。そういうシンボルは異なる個人が共有することにより、より確実な知識の獲得

に到る。一方、現象の表現はその対極を行くのではないか。表現は自分一人だけの感性が

物を言うのであろう。そう思うと、冒頭の短歌は何か哲学者西田幾多郎ではなく、西田幾多

郎とい一個人の心情を詠ったもので、何か新しい発見をしたようなときめきを覚えた。おそら

く、難渋する学問からちょっと退いて春の情景に身を任せた時に詠んだように思われる一首

である。歌集から掲載されたのはたった一首で、選者の目に留まった一首でもあったのだろ

う。ところで、春の岡べとはどんなところであろうか。幼少の頃、小川のほとりのしげみにぼけ

の花が咲いていたのをみたような記憶がある。別名をシドミと言うらしい。子供達はシドメと呼

んでいた。最近は、小さな雑木の生えているしげみを見る機会も少ない。西田幾多郎が見た

岡べも人家からそれほど離れた所ではなっかたように感じる。そんな所に、ふと足をとめると

ぼけの花が二三咲いている。ほーと、乙女子(おとめご)の唇を連想する。読む方は、哲学者

西田幾多郎からイメージを連想する。半ば、哲学者西田幾多郎を否定しつつ観賞するとなん

となく、人間西田幾多郎を身近に感じる。