2010/3/29
離農
農捨てて街に出でむと妻に言ふすでに幾度も言ひたる言葉
昭和萬葉集14巻。きびしい農業、離農・過疎という区分にあった短歌である。最近になって
気まぐれに短歌を読むようになった。ある時代を生きた人がその時代をどのように生きたか
を知る手がかりになるからである。詠むとなるとまた別の心情が生まれるのであろう。そこに
はそれなりのエネルギーの集中が必要なのだ。詠んだ人の心情を読んだ人が感じるという
部分にも短歌の持つ性格があるのだろう。心情の表出から更に伝えたいという気持ちも生ま
れる。丁度、自分が社会に出ようとした頃作られた短歌であろう。一巻の中には二三千首程
の短歌が掲載されていると思うが、その一つ一つに切ない心情を感じてしまう。思うに農はい
つの時代にも厳しさがあった。自分も、農に生まれ育ったが、結果として自分も農を捨てた。
そうして、人生の大半を農以外で過ごして、また農に戻ってきた。ともかく何で飯を食うかが
目先の問題であった。振り返ると自分も、父招く青空大学断念し理文も捨てて工を学びし、と
いう状況であり、冒頭の歌が切なく感じるのである。一度、農を捨てて、齢60才頃に帰農して
も、後継者も無ければ前途も知れている。そう言えば、当時の美濃部都知事が都庁を去るに
際して、陶淵明の帰去来の辞を引用したのを思い出した。歸去來兮(かへりなんいざ),田園
將(まさ)に蕪(あ)れなんとす,胡(なん)ぞ歸らざる。当時は革新都政に何か輝かしいものを
感じた。しかし、何事も輝かしさは時と共に失われてしまう。終戦前後は食糧難の時代であっ
た。現在はどうか。食料が余っていても、食に窮する人がいる。いくら時代が変わっても、本
来の農・田園はどんな人間でも受け入れてくれるもののようにも思われる。また、そう願う。そ
こには生物(生命)の再生原理があるから。