昭和萬葉集:巻九(戦後の風俗)

2010/10/15

昭和萬葉集:巻九(戦後の風俗)

この巻は昭和25年~昭和26年を対象としている。そのⅢ戦後の風俗の区分中の戦後の風俗の項に掲載された短歌である。自分が物心付いた頃の様子を知りたいと思い紙片を挟んで置いた部分を再読した。

■かつぎやはおほむね老いし婦にして助けあひおどけあひ汽車降りてゆく(志岐春吉)
■ばすの中の十人近き運び屋が次々何か耳うちをする(生田まきゑ)

終戦後の交通運搬網は貧弱であり、鉄道運送の比重が高かった。都会への農水産物の運搬に担ぎ屋が活躍するすき間があったのだろう。担ぎ屋は単に運搬するだけでなく、客の玄関先で販売までして、帰りには都会の物品も仕入れたりして色々な役割を兼ねていたと思う。前の一首、字余りの「助けあひおどけあひ」という句にかつぎやの老婦人が活写されている。後の一首、作者は「次々何か耳うちをする」と運び屋の会話の内容に迫ろうとしているようだ。取り上げた二首は担ぎ屋を遠巻きの視線で見ているが、終戦直後のありふれた風景のようにも見える。

汽車やバスに乗る場合は集団行動をしていたように見える。一人で行動するとなると色々な圧力がかかってくるだろうから合理的な行動だろう。当然販売するときはそれぞれ自分のお得意に向かって個別に行動したと思う。これも合理的な行動であろう。社会が安定してくると一般乗客からは担ぎ屋が時には白い眼で見られ易くなってきたという事情があったかもしれない。事実、自分が学生時代に東京へいった時も少ないながら担ぎ屋を見たことがあるが、一般客の迷惑になるのではと思ったりした記憶も残る。

しかし、いま考えると担ぎ屋が多かったという事実の裏には担ぎ屋のサービスを受け入れた人や状況があった筈だ。いま担ぎ屋がいるのかいないのか定かではないが、公共の乗り物は誰もが乗れるという基本が重要だと思う。サラリーマンが通勤のため乗るのと担ぎ屋が商売でのるのも生活のためと言う点では全く同じであろう。

■代燃車の煙に赤くネオン映ゆ夜深くして寒き街角(籏町美嘉)
■並びたる木炭バスが朝日さす街の片側に煙りあげおり(笠原清一郎)

残念ながらガソリンの代用燃料を使う木炭車が動くのを見たことはない。しかし、戦後のある期間、都会の中心街に木炭車が走っていた事をこの歌で改めて知った。

WIKIPEDIA(最終更新 2010年9月5日 (日) 13:40 )によると、「木炭バス(もくたんバス)とは、バスに積載した木炭ガス発生装置による一酸化炭素とわずかに発生する水素(水性ガス)を動力として走るバス。日本では燃料用の原油が不足した第二次世界大戦中の1940年代に使用された。このような機関は日本のみに見られた特殊事例ではなく、ドイツなどの枢軸国側の国家のみならず、フランスやイギリスなどの連合国側の国家でも石油事情が逼迫した際には用いられた事があった。」とあり、石油の代替えとして木炭自動車は広く使われたようだ。

「木炭ガス発生装置」は自動車メーカーが作ったのか気になるところだが、化石燃料を使わなければ環境対策にもなるだろう。安価で便利な石油を多用したつけが地球温暖化の原因といわれるCO2という目に見えないガスなのだが。現在、電気自動車の開発が盛んに行われているが、エネルギーを電池に蓄えモーターを回すのでガソリン自動車と完全に方式が変わるが、早さと馬力は捨てないだろう。誰にも車の運転で高速な移動が可能になったが、この早さと馬力で失った物が非常に大きいように感じる。ゆったりした移動が人間の病んだ精神の回復に必要なようだ。