雑草句録:大雪予報

2011/1/10

雑草句録:大雪予報

■気象庁大雪予報試験かな

試験かなとは試験シーズンで万全な対応をとれと予報を裏読みしたようだ。実力以上にサービスをしてしまうとだんだんその実力の限界が分からなくなる。津波予報が出ても避難した人は意外に少なかったというような事が当たり前になりつつある。各家庭に電話が入り始めた頃から情報化社会になって来たと思うが、その便利さに安住してしまうと大きなつけが回ってくるかもしれない。

○白炭やかの浦島が老の箱     芭蕉

Google検索:約 183 件。製法により炭に黒炭と白炭があり、白炭は茶の湯等に使われるらしい。高級品で短時間で出来る。この変化の速さを浦島太郎の説話に喩えたようだ。玉手箱を老の箱と言い切ってしまうのは流石芭蕉。

■光速を超えて赤子の我に会う

夢と言えば、超高速の光に乗って赤子の時の自分に会えたらと思う。それを可能にするのは記憶しかないのだろうか。

追記1:芭蕉の句で「白炭や」と投げかけている意味は何かと思った。白炭と茶の湯からの連想から、竜宮の生活がイメージに浮かんできた。高級な白炭を使って茶の湯に現を抜かしても浦島の玉手箱みたいなもんだと言われそうで不気味だ。

追記2:この世に光り以上に早い物は無いので、「超高速の光に乗って」も不可能。気になったのが芭蕉の時間感覚。何か芭蕉の名句があったと思うが、思い出せない。そこで「芭蕉 百代 客」Google検索。「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」と奥の細道の冒頭の一節だった。「月日は百代の過客にして」とは天文現象を起こす太陽と月を擬人化している。何回も何回も定期的に巡ってくる。「行きかう年」とは月日という暦と読める。これも擬人化している。その擬人化の上に芭蕉の時間感覚を投影している。月日が過客であり、旅人であるなら、自分も月日と同じようでもあるという意識が芭蕉作品に低通しているのだろう。こういう時間感覚から「白炭やかの浦島が老の箱」という句を観賞すると芭蕉の視線の長さを感じた。