がんばれ! ふくしま:東日本大震災孤児の支援を行った未来のエネルギーを考える会

2011/10/24
昨日は晴天。雲が出ていたが風が少ないので穏やかな暖かさ。AMは接木実験等。午後は地区公民館の文化祭の見学。血圧、体脂肪、BMIを測定してもらった。まあ、何とか我慢できる範囲と自己診断。多分甘すぎるだろうが。出品されていたロウヤガキについて聞いた。やはりテマヒマかけないと良い作品はできないようだ。灌水も大変なようだ。夏場は少なくても朝晩二回以上との事。顔見知りの人と立ち話。帰ってきてからサツマとカキの収穫。サツマの歩留まり・品質が良くない。ひび割れがひどい。マルチではサツマが過剰肥大してしまうのか。水洗いは軍手を付けたままでした。

2011/10/24

TAVE= 20.3
TMAX= 23.8
TMIN= 17.9
DIFF= 5.9
WMAX= 2
SUNS= 3.3
RAIN= 0.5

がんばれ! ふくしま:東日本大震災孤児の支援を行った未来のエネルギーを考える会

2011年9月9日伊勢崎市の未来のエネルギーを考える会が「ミツバチの羽音と地球の回転」という映画の自主上映会を開催した。未来のエネルギーを考える会のメンバーはほとんどが女性であり、手探り、手弁当でこの映画の開催にこぎつけた。彼女たちが自主上映を決意したきっかけも東京電力福島原発事故にある。今まで、エネルギーはふんだんに使えて当たり前と思っていたが、もはやそのような考えは通用しなくなったと感じたのだろう。上映前の会長さんのあいさつからそんな気持が伝わってきた。また子供を産み育てる女性という立場を無意識に意識して立ち上がったのではないかと思う。この映画は福島原発事故以前に制作されて、自然エネルギーの利用、持続可能な社会の実現を訴えるのが基本コンセプトのようだ。最初は赤字になったら心配だというような状況であったが、幸い大勢の入場者があり、剰余金は東日本大震災の被災者へ寄付すると聞いていた。

地区公民館の文化祭を見学中に、偶然未来のエネルギーを考える会のメンバーが声をかけてくれた。つい先日、視察を兼ねて現地へ寄付を届けてきたとの事だった。会としては、寄付金が会の趣旨に最もかなう寄付先を調べ、「震災孤児等支援金支給基金を設置」した相馬市に決めたらしい(url=http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/gienkin/tunami_orphan_J.html)。寄付を直接届けたのも自分たちの活動を確認するためだったようだ。大きな寄付団体に寄付した場合、その行き先も、使用目的もはっきりしないので、寄付の送り先も会が自主的に決めたそうだ。寄付金の原資も大勢の入場者のおかげなので、現地への旅費は出向いたメンバー達が自費でまかなったとの事。

自分は寄付について何となくわだかまりがある。その一つに寄付する側と寄付を受ける側の立場の違いだ。寄付する側は自然に強者になってしまう。寄付を受ける側は弱者の立場になり、卑屈になってしまうのではないのか。寄付者の名前と金額が公表される場合がある。それを見ると財力と名誉心の広告のように見えてしまう。中には寄付というが強制的で断りにくいのもある。自分の身近にいる困った人の支援ができずに、不特定多数の困った人の支援をする等々。寄付金が途中で蒸発してしまうのではないかという疑念は永久に消えない。東日本大震災の寄付も物資は受け付けず、寄付できるのはお金だけになった例もある。結局、カネカネ、カネが全てという前に貧者の一灯は風前の灯火になってしまう。寄付も見える化が必要なようだ。

「Volunteering;http://en.wikipedia.org/wiki/Volunteering;(This page was last modified on 17 October 2011 at 12:26.)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「In general terms, volunteering is the practice of people working on behalf of others or a particular cause without payment for their time and services. Volunteering is generally considered an altruistic activity, intended to promote good or improve human quality of life, but people also volunteer for their own skill development, to meet others, to make contacts for possible employment, to have fun, and a variety of other reasons that could be considered self-serving. Volunteering takes many forms and is performed by a wide range of people. Many volunteers are specifically trained in the areas they work in, such as medicine, education, or emergency rescue. Other volunteers serve on an as-needed basis, such as in response to a natural disaster or for a beach-cleanup. In a military context, a volunteer army is an army whose soldiers chose to enter service, as opposed to having been conscripted. Such volunteers do not work for free and are given regular pay.」とある。

上記記事をGoogle翻訳すると、
「一般的な用語で、ボランティアは自分の時間とサービスに対する対価を支払うことなく他人に代わってまたは特定の原因に取り組む人々の習慣です。ボランティアは、一般的に、利他的な活動と考え良いの促進や生活の人間の質を向上させることを意図し、人々はまた楽しい時を過すために、可能な限り雇用のための連絡先を作るために、他の人を満たすために、自らの能力開発のためにボランティア活動、および他のさまざまな理由がされそれは利己的な考えることができます。 ボランティアは様々な形態をとり、幅広い人々によって実行されます。多くのボランティアが、具体的には、医療、教育、または緊急の救助として、彼らが働く分野、訓練を受けています。他のボランティアはこのような自然災害への応答として、またはビーチクリーンアップのため、必要に応じて機能します。軍事的文脈では、ボランティアの軍隊は、その兵士のサービスを入力する選択をした、として徴用されてするものではなく軍隊です。このようなボランティアが無料で機能しないと、通常の賃金を与えられている。」となった。

ボランティア活動は阪神淡路大震災の頃から活発になってきたと言われている。日本の社会では比較的新しい活動かもしれない。一般的には、活動者は自分たちの行った奉仕や費やした時間に対して報酬を求めない利他的活動がボランティア活動だろう。英語版WIKIPEDIAでは更に自分の能力を高めたり、人との交流、専門知識の活用等々広い意味も紹介している。

未来のエネルギーを考える会のメンバーもボランティア活動をしており、そのネットワークを通して多数の協力者により「ミツバチの羽音と地球の回転」の入場券を頒布した。ボランティア活動をしたくても、仕事や生活環境の都合で出来ない場合も多いと思われる。そういう人々も入場券購入という形で間接的にボランティア活動に参加したのではないか。ボランティア活動を考えると、同会の寄付の気持が理解できた。相馬市のホームページによると、相馬市震災孤児等支援金支給基金を通し、「お寄せいただいた支援金は、大震災で孤児となった、または両親の一方を亡くした高校生以下の子どもたちを対象として、毎月3万円ずつを支給しています。」とある。

47トピックスは、「【きょうのトップニュース】(9月17日夕刊)親族里親、活用広がる 131人の養育者認定 大震災孤児は236人;url=http://www.47news.jp/47topics/e/220095.php(2011/09/17 13:43):共同通信」というタイトルで、「東日本大震災で親を失った子どもの養育で、国などから生活費の支給を受け、親族が親代わりに育てる「親族里親」制度の活用が広がっている。厚生労働省によると、震災で孤児となった18歳未満の子どもは236人。このうち親族里親の認定件数は、17日までに97件(子ども131人)に上り、半数以上の子どもの養育者が親族里親に認定されたことになる。」と報じた。

「大震災孤児」という呼び方にも違和感を感じる。また差別も心配だ。親の死後に残された子の意味で「遺児」という用語もある。WEB上には、「東日本津波遺児支援 | あしなが育英会」というような情報もあった。「遺児」は、成長期の人間が対象であり、本人の気持ちにも配慮しているのだろうか。ともかく基金が適正に運用され、その目的が十分達成される事を願う。本来は、遺児、捨て子、孤児等は、呼び名はどうあれ、国や自治体が責任を持って養育すべきなのではないか。群馬が生んだ歴史家、羽仁五郎が都市の論理で、西洋の都市は孤児院のような施設を持っていたと述べていたような記憶がある。国や自治体が弱い者を見殺しにしたら、国や自治体は死んだのも同然ではないだろうか。