ツルよ 飛んでおくれ(愛しきもの 生き物);藤岡の鮎川にアユでなくサケがが遡上?

2012年10月3日水曜日
昨日は曇り一時晴れ。ざっそう句:ため息と 出涸れ麦茶の 秋の宵。最高気温(℃) 26.3 13:42。夏日。ニンジン区画の草むしり。買い物。野菜種子3種。山東菜の播種。直接筋蒔き。中国みやげの豆の支柱修理。気が付くと台風17号の強風で南西方向に倒れていた。9/30:最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 21.2(南東) 21:32 頃の強風が原因か。莢の幅と長さが大きくなっていた。どうもナタマメの種類らしい。殺虫剤で蜂の巣2個を駆除。多分アシナガバチ。D社のカ・ハエ用殺虫剤の有効成分はピレスロイド(d-T80-フタルスリン、d-T80-レスメトリン)とある。I社の スズメバチ用殺虫剤の有効成分は、メトフルトリン、d-T80-フタルスリンとある。後者が前者より3倍程値段が高かったので前者を購入。ピレスロイドは昆虫の神経伝達機構を攪乱する薬剤との事だ(ピレスロイドの作用機序。http://ci.nii.ac.jp/els/110000978622.pdf?id=ART0001155228&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1349189189&cp=)。スプレーを噴射すると蜂はケイレンを起こして落下。薬の威力は効果覿面だったが、本心はそこまでしたくはない。周りが騒ぎすぎ、責任論が出てくる。責任論と言っても、責任はとりたくないという無責任論がその背後にある。WEB情報では、スズメバチは危険を伴(自治体として苦情に対応)うが、足長バチは共存(自治体として苦情に対応しない)というのがある。中国みやげの豆の葉に、電気ムシのような虫がいて、刺された。こちらは自己責任だ。

2012年10月2日の天気(AMEDAS)

TAVE= 22.4
TMAX= 25.8 最高気温(℃) 26.3 13:42 
TMIN= 20.8 最低気温(℃) 20.6 08:50 
DIFF= 5
WMAX= 4.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.9(南東) 17:56 
SUNS= 1.3
RAIN= 1

Q
Q

ツルよ 飛んでおくれ(愛しきもの 生き物);藤岡の鮎川にアユでなくサケがが遡上?

先日、所用の帰りに藤岡市の鮎川の鮎川橋の欄干から、川の中を覗いた。一人弥次喜多道中のように、何となく気ままに水の流れを眺めた。流れている川は鮎川なのだが、道標に「あいがわばし」という表示があった。行きに同じ場所に通りかかった時は、「藤」と「鮎」の図柄が橋の側面に埋め込まれているので、さすが藤岡の鮎川かと漠然とデジカメのシャッターを押した。

ゆっくり歩いていると、橋や道路等に、その地に関係する図柄がそれとなく埋め込まれている場合が多々あり、誰がどういう意図で行っているのか分からないが、そういう図柄を発見する楽しみを与えてくれる。初めて行った場所でそのような図柄に出会うのは何となく楽しい。初めての行程だったので、WEB地図で調べた。鮎川は鏑川に合流するのだが、東毛地方の地図を見慣れているので、鏑川から鮎川が分流するような勘違いをしてしまった。

鮎川は「あゆかわ」と読むのか、「あいがわ」と読むのかも、漠然と気になった。その後、調べてみると、昔は「あいがわ」と呼(読んで)んでいたようだ。漢字の読みを統一するようになってから、「あゆかわ」になったらしい。どちらが正しいという問題ではなく、どちらも使われたというのが実状のようだ。そうなら、「あいがわばし」という道標には、古来の地域の名前を残そうとする意図があるように感じて、愛着を覚えるような気になった。

鮎川の岸側の河床には、雑木が繁茂していたが、中央部の川筋にはゆったりと水が流れていた。最初は「あいがわばし」から上流方面を眺めていた。車列が切れた所で、橋の向かい側に渉って、ぼんやりと水面を眺めた。しばらくすると、なにやら魚が泳いでいるのに気付いた。その魚影は、橋に向かって近づいてきた。鯉かなと思ったが、鯉よりスマートに見えた。さっそくデジカメを取り出して、シャッターを切った。魚影が写ったのはたったの二枚。その魚は、やがて橋の下に消えた。その魚は鯉や鮭以外の魚だと言われても、否定のしようもない。

その後、自宅でWEB調査すると、鏑川や鮎川に鮭が遡上する事は確認されているらしい。遡上が始まるのが10月頃との事で、一応先日の体験とは辻褄はあっているようだ。鏑川橋のすぐ下に、中村堰があり、鏑川の水はほとんどが、堰のゲート部に流れていた。地図を見ると、鮎川はその堰の下流で鏑川と合流している。そうすると、自分が見た魚は、利根川、烏川、鏑川、鮎川と順々に遡上してきたのだろうかと想像したくなる。中村堰に魚道があるのか知らないが、鮭からみると、中村堰を通過して遡上するより、鮎川を遡上する方が楽そうに見える。あの魚は鮭だったのか。

「サケ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B1#.E3.82.A2.E3.82.A4.E3.83.8C.E3.81.A8.E3.82.B5.E3.82.B1。(最終更新 2012年9月23日 (日) 06:31 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「アイヌとサケ [編集]:北海道のアイヌ民族は鮭をカムイチェプ(神の魚)、またシペ(本当の食べ物)と呼び、生活の大半をその恵みに依存していた[5]。」とある。

実は、この鏑川と鮎川で挟まれた丘陵地帯は古墳の密集地帯で、古来から文明が栄えてきたのだそうだ。今から、千数百年前の古墳時代は、サケの乱獲などはなっかったろうから、鏑川や鮎川にも鮭が多数遡上してきたのではないかと空想する。古墳時代は、石器時代の狩猟・採取という移動中心の生活から、栽培・飼育・農耕という定住生活になる。古墳時代ではまだ、サケがアイヌの生活を支えたように、当時の人々にとって重要な食料だったかもしれない。海の恵みが、サケの遡上という形で内陸まで及んでいたとなると夢は大きくなる。
Fujioka_ayukawa_sake_sojyou_5pix_2
左から:藤、鮎、道標、合流部地図(国土地理院)、魚影。