ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):富岡製糸場と絹産業遺産群から見えるもの

2012年12月8日土曜日
昨日は晴れ。最低気温(℃) 0.4 23:17。ざっそう句:天高し 朴の大木 地に落ち葉。朝方落ち葉掃き。朴の大きな葉も大方散った。乾燥してカラカラになった落ち葉は掃きにくい。降霜の水分が落ち葉をしっとりさせる。回覧板と雑用で出たついで。富岡製糸場と絹産業遺産群のユネスコ世界遺産登録作業も進んでいるようだ。元養蚕農家の倅としても、かつて日本を支えた重要産業の記憶が残されるのはうれしいが、過去の光栄にしがみつかざるを得ない現実が何となく寂しくもある。
WEB検索で出会った論文で、「製糸産業が衰退した主な要因は、化学繊維の出現と技術移転を伴う海外投資である。」としていた。絹、綿・繊維、穀物、自動車、カラーテレビ、半導体等々は国際商品である。これらの商品の生産、流通は国際規模になり、国家間の摩擦も生じた。生産国も技術も移動した。現役時代、カラーテレビ、半導体関係の仕事に従事し、その栄枯盛衰の一端を見た。目下の最大関心事はTPPだろうが、日本の将来をどうするのか真剣に考える必要がある。拙速・失策では国がもたない。

2012年12月7日の天気(AMEDAS)

TAVE= 6.1
TMAX= 12.7 最高気温(℃) 13.0 13:34
TMIN= 0.9 最低気温(℃) 0.4 23:17
DIFF= 11.8
WMAX= 6.2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.2(北西) 03:48
SUNS= 8.9
RAIN= 0

WEB検索で「春合宿研究論文『日本の製糸産業の発展要因と衰退要因』(http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~hjm_kwmr/9/spring/opi.pdf)」に出会った。著者は「河邑肇ゼミ 9期生 おぴと愉快な仲間たち~空だって飛べちゃうんだぞ~班 相賀康平・鍵和田亮・菊地詩織・佐藤礼・難波亮」とある。中央大学の学生なのか。この論文は、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を理解する上でも大変参考になりそうだ。「桑園:いとしきもの(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/04/post-8c94.html。2010/4/2)」に記憶の一端を書いた。「桑園に資本の威力おもはせてレイヨン大工場またたくまに建つ」という短歌が化学繊維普及の勢いを伝えている。

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ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):富岡製糸場と絹産業遺産群から見えるもの

群馬県は、「富岡製糸場と絹産業遺産群」のユネスコ歴史的資産への登録に向かって邁進している。今は無い、我が家の古い藁葺きの家には馬小屋が付属しており、馬を飼ってきたようだ。終戦時、父が復員するとき軍馬を一頭連れてきたという話を聞いた。その経緯は聞かなかったが、終戦時のごたごたで、家に連れてくれば、馬小屋があるので何とか飼えるだろうと思ったのかもしれない。という事は、戦時中は既に馬はいなかったのではないか。自分が物心付いたときはその馬は既にいなかった。

群馬県の古墳から出土する埴輪で特に優れているのは、馬、武人などだそうだ。WIKIPEDIAによると馬の日本在来種の系統はモンゴルから導入されたらしい。それが、古墳時代の事で、人類の歴史から見ればそれほど古いことではない。古墳時代は既に、社会が安定し始めているので、武器の性格は隠れているが、前古墳時代は今日の戦車以上の武器であったかも知れない。古墳から出土する馬、武人の埴輪は、古墳時代までの戦乱の記憶なのだろうか。

「日本在来馬。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC。(最終更新 2012年9月17日 (月) 03:26 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「歴史的経緯 [編集] :北海道和種(道産子)日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。現存する東アジア在来馬について、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った野沢謙によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。また、古墳時代には馬骨や馬具が考古遺跡から出土しており、日本在来馬の存在が確認される。 古墳時代では小形馬が主流であり、一部中形馬が存在し、奈良時代になると平城京を中心に中形馬が増加するが、小形馬も地方を中心に依然として残る分布状況であったとみられる[1](したがって、古代では近畿圏の方が馬の体格は大きい[2])。」とある。

ヨーロッパの産業革命を先導したのが蒸気機関の発明。その背景になったのが科学という合理的な物の見方。宗教という世俗権威との戦いもあった。動力機関の能力が馬力(HORSE POWER)で表されるようになったのも興味深い。残念ながら、アジアや他の地域も動力革命では欧米に出遅れた。遅れていたのは、科学だけでなく、合理主義や経済社会文化の面も同様であった。明治政府が採用した和魂洋才という政策はそれを端的に物語っている。

富岡製糸場は国家主導の官営。技術も外国からの導入。一方、絹産業遺産群を形成する、荒船風穴、高山社跡、田島弥平旧宅は民間の技術力を示しているように感じる。官と民のベクトルがうまく合ったことにより、日本は世界に一歩先行できたのではないか。

人類が成し遂げた大きな科学技術的革命は、火の利用(経験)、農耕(経験の集積)、動力機関(意識的な科学技術開発)、原子力(組織的な科学技術開発)と言えるだろう。思うに、この現代という段階は個人や単一の社会組織や単一の国家を越えて、人類全てが関係し、そこから逃れられない構造体になっている事である。

富岡製糸場を見学して、なぜ国が官営工場の建設に邁進したのか分からなかった。江戸末期、幕府や諸藩が最も恐れたのが、日本に開国を迫った交渉力の源であるあの黒船や大砲ではないか。逆に、それをうまく活用して国力を付けるにはどうするべきか。当時の動力といえば、蒸気機関。「日本の鉄道は1872年(明治5年)に開業したが、このとき投入された車両は1号機関車などすべてイギリス製の車両であった。(WIKIPEDIAの記事=「日本の蒸気機関車史」。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A%E5%8F%B2#.E9.89.84.E9.81.93.E5.89.B5.E5.A7.8B)。参照。」とある。一方、「富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill )は、群馬県富岡市にあった日本初の機械製糸工場である。敷地および主要な建造物は2011年時点で現存している。官営模範工場の一つであり、明治5年10月4日(1872年11月4日)に操業を開始した。(WIKIPEDIAの記事=「富岡製糸場」。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E8%A3%BD%E7%B3%B8%E5%A0%B4。。参照。」とある。蒸気機関と言えば、産業革命の申し子である。共に明治5年の開業という事で、富岡製糸場が日本の産業史という点からも重要である事が理解できる。富岡製糸場を見学して、機械を動かす動力を生み出すのがあの高い煙突に示される蒸気機関だと想定できるが、工場内部の機械がどのようにして動いたのか興味がある。

「富岡製糸場 世界遺産推進ームページ(http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html)」によれば、「昭和62年(1987年)3月ついにその操業を停止しました。」とあり、工場内の機械類は新旧が混在しているかもしれない。合理化の流れからは、動力が蒸気機関から電動機関(モーター)に代わったと思われるがはっきりしなかった。100年以上の稼働実績があるのだから、この蒸気機関から電気機関という動力革命についても是非学習できるような展示の工夫も望みたいところだ。写真左二枚は2009年、右二枚は2012年見学時のもの。
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