2013年7月3日(水)
昨日は曇り時々晴れ。最高気温(℃) 29.5 13:37。ざっそう句:ヒラリヒラ オハグロトンボ 飛んでった。二回目に播いたトウモロコシ区画除草。下仁田ネギ区画除草。トウモロコシ施肥。鉄砲ユリ、ニンジン区画除草。ジニア移植。雑草との格闘は終わることがない。その雑草の中に、トマトやナスが発芽している!夕方買い物。
2013年7月2日の天気(AMEDAS)
TAVE=
24.3
NO DATA
TMAX=
28.8
最高気温(℃) 29.5 13:37
TMIN=
21.2
最低気温(℃) 21.1 05:22
DIFF=
7.6
WMAX=
4.3
最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.3(東南東) 14:11
SUNS=
3.3
NO DATA
RAIN=
0
NO DATA
Q
Q
残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(5)=加部安大尽の屋敷跡
日程の第6番目には、加部安大尽の屋敷跡とある。その一部が資料館になっているようだ。屋敷の頑強さを示すのがその石垣。当時、武家以外の石垣は丸石積みしか許されなかったそうだ。ところが、加部安屋敷の石垣は切石がその要所に使われている。
加部安左衛門は代々襲名されたようで、Aさんの説明では、加部安左衛門は明治の頃横浜に事業の中心を移して、地元の家業は疎かになったとの事だ。WEB情報では生糸商を営んだようだ。最近、富岡製糸場と絹産業遺産群がユネスコの歴史的産業遺産登録で脚光を浴びているが、富岡製糸場は官業の二次産業の部分を受け持っている。残りの三遺産がいわば民営の一次産業の部分だろう。絹産業の第三次産業部門が通商関係だが、その部分にどんな遺産が残っているのか。ともかく、絹産業の通商分野も注目する必要があるだろう。
明治の国力を支えた絹の国際的通商という点で、加部安左衛門がどのような活動をしたのか興味があるところだ。更に俳句にも傾注したとの事(琴堂:きんどう・加部かべ、名主/俳人)。もう一人、自分が注目している群馬県出身の人物で通商で成功した人物に伏島近蔵がいる。横浜の発展に大きく貢献した事より、群馬県より横浜の恩人として横浜での知名度が高いのではないか。
大正用水史によると、伏島近蔵は大正用水の開鑿アイデアも持っていたとの事だ。
WIKIPEDIA「伏島近蔵。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E5%B3%B6%E8%BF%91%E8%94%B5#.E9.A0.8C.E5.BE.B3.E7.A2.91.E3.81.A8.E9.8A.85.E5.83.8F)」
「加部琴堂 とは - コトバンク(http://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E9%83%A8%E7%90%B4%E5%A0%82)」に、「加部琴堂 かべ-きんどう:1829-1894 幕末-明治時代の豪商,俳人。
文政12年生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)大戸村の人。加部安左衛門12代目。俳諧(はいかい)を志倉西馬(さいば)に,国学を橘守部(たちばな-もりべ)に,儒学を亀田綾瀬(りょうらい)にまなぶ。安政5年(1858)横浜開港に際し,横浜に出店し生糸・麻などをあきなった。のち高崎に移住。明治27年5月9日死去。66歳。名は嘉重。別号に一籟居,屏山桜。句集に「穂長集」。」とある。
実業人から、さらに文化人への転身というのは、群馬では珍しいのではないか。それほど群馬県は文化のレベルが低いのだろうか。そういう点では、加部安左衛門も群馬文化のパイオニアとして注目に値するだろう。
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