読みかじりの記:閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本 江藤 淳著 (1994年 株式会社 文芸春秋)

2013年8月11日(日)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 38.7 15:05 。ざっそう句:祭りの子 猛暑を忘れ 燃え尽くす。昨日は猛暑日連続4日目。午前下仁田ネギB区画除草。主な雑草:メヒシバ、オヒシバ、カヤツリグサ、ヒユ。これら雑草に埋もれて姿が消えてしまった区画からネギを救出。B級苗で手抜きをした結果。勝手に生えたナス苗の残りが雑草の中にあったので移植。一回目トウモロコシの残りを収穫。午後から待望のお祭り本番。町内でお披露目してから本会場に向かう。二回出場。今年の最高気温を記録したが、練習の成果を十分発揮できた。熱いが雷雲も出ず天気は安定していた。無事初日を終了。

2013年8月10日の天気(AMEDAS)

TAVE= 33.0 NO DATA
TMAX= 38.3 最高気温(℃) 38.7 15:05 
TMIN= 28.1 最低気温(℃) 27.9 05:07 
DIFF= 10.2  
WMAX= 2.7 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.7(西北西) 21:28 
SUNS= 11.1 NO DATA
RAIN= 0 NO DATA

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読みかじりの記:閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本 江藤 淳著 (1994年 株式会社 文芸春秋)

目次
第一部  アメリカは日本での検閲をいかに準備していたか
第二部  アメリカは日本での検閲をいかに実行したか
あとがき
文庫版へのあとがき

本書を手にしたのは、「閉ざされた」、「占領軍」、「検閲」、「戦後日本」等々のキーワードが現在の世相と何となく通じている何かがあるように感じたためである。

人間の言葉は意志疎通の道具だと極論出来るだろう。言葉からその意志疎通の道具という本質を取り去れば、空虚さだけが残るのではないか。

一方、言葉は考える道具でもある。自分が大学で習った最大の成果は考えることは自由だという事だったと思う。人間や社会はその自由を束縛してきた歴史を持つ。人間は考えるだけではその効果は少ない。行動の自由も必要だ。

「考えることは自由だ(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/12/post-259c.html)。(2008/12/10)」そうして、思い出すのはあのネルソン・マンデラの事だ。最近、危篤との報道があった。

WIKIPEDIA「ネルソン・マンデラ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9)」

WIKIPEDIA「江藤淳。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%B7%B3)」

Googleによる「日本国憲法 E-GOV」の検索:「http://www.google.com/?hl=ja#bav=on.2,or.r_qf.&fp=fd925d6dd20db9a4&hl=ja&psj=1&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%80%80E-GOV」。

本書に関係する憲法条項をピックアップ。

「第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 」

本書は、突き詰めれば日本国憲法と関係するわけだ。著者は、第一部で日本占領後の検閲が周到に準備されていた事実を米国での資料調査で明らかにする。また、アメリカでも自主検閲が行われるようになった経緯を述べている。

第二部では、日本の敗戦に伴い、第一部の準備がいかに日本で実行されていったかを詳細に解明している。日本での検閲を実行した米国組織が米軍民間検閲支隊CCD(Civil Censorship Department)との事だ。興味深いのは、昭和時代の末期でも「~。現に日本国内において、しかも報道機関それ自体の手によって、歴然たる検閲が行われているという実状を、私はたまたま親しく体験し、~」と述べている事である。

著者としては、CCDが行った検閲も日本の報道機関が行う自主検閲も、言語空間を閉ざしてしまう真の自由に対する障害と捉えられているようだ。

ところで、憲法第二十一条は政治活動の基本をも規定しているだろう。改憲を主張する政党も、護憲を主張する政党も、憲法第二十一条の恩恵を受けているのではないか。

WIKIPEDIA「First Amendment to the United States Constitution。(http://en.wikipedia.org/wiki/First_Amendment_to_the_United_States_Constitution)」に「The First Amendment (Amendment I) to the United States Constitution prohibits the making of any law respecting an establishment of religion, impeding the free exercise of religion, abridging the freedom of speech, infringing on the freedom of the press, interfering with the right to peaceably assemble or prohibiting the petitioning for a governmental redress of grievances. It was adopted on December 15, 1791, as one of the ten amendments that comprise the Bill of Rights.」とある。

WIKIPEDIA「権利章典 (アメリカ)。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%88%A9%E7%AB%A0%E5%85%B8_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB))」に「修正第1条[編集](信教、言論、出版、集会の自由、請願権):合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない。」とある。

著者はあとがきで、「日本の読者に私が望みたいことは、次の一事を措いてほかにない。即ち人が言葉によって考えるほかない以上、人は自らの思惟を拘束し、条件付けている言語空間の性質を知ることなしには、到底自由にものを考えることができない、という、至極簡明な原則がそれである。」と述べている。

著者は、由緒正しく?「言語空間」なる言葉を使っているが、各個人の思惟もその「言語空間」に投影されるのであろう。どうも最近、その「言語空間」が裁断化され・歪み実像が見えにくくなっているような気がしている。

検閲は見方によれば、受動的・秘密的な・暗黙的な情報操作と言えそうだが、昨今では「ヤラセ」という意図的・積極的な情報操作さえも問題になった。著者がこのような現実を見たらどんな事を考えるのか。